(続)海の音

雑念のメモ

映画『夜空はいつでも最高密度の青色だ』感想

『夜空はいつでも最高密度の青色だ』という映画を観た。最果タヒさんの同タイトル詩集を石井裕也監督が映画化したという。

最果タヒさんは若くして数々の賞を受賞された現代詩人だが、詩の世界に疎い私は大森靖子さんの自伝著『かけがえのないマグマ』の著者として初めてその存在を知った。以降、文芸誌などで彼女の詩や小説が掲載されているのを何度か見かけたことがあるが正面から向き合ったことはない。今回の映画の原作となっている第4詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』も未読であった。

好きになりそうなものや人ほど存在に気付いてから「知る」まで一定期間遠ざけてしまう変な癖が私にはあるらしい。心の準備をせずに注ぎ込むと自分の小さな受皿を超えてどんどん外に溢れ出してしまう。それはその人や作品に対して失礼な行為である気がして、よし今ならと思った時に向き合う。そのタイミングが合っているか合っていないかなんて分からないけれど。だから入口が針穴ほどしかなく「名前しか知らない」と言うと「え、聴いたことないの?みたことないの?」と驚かれることもある。「この作品いいよ」とか「この人面白いよ」と言われたら興味は持つが接近するまでに時間がかかる。匿名の誰かによる芸術や様々な事象に対する無数の感想評価が次々と流れて消えていくツイッターは新しい発見も多く新鮮だったけれど、知らず知らずのうちに他人の感性で濾過された言葉で分かった気になり己の意見を失ってしまうのが怖くて辞めてしまった。

話がずれたがこの映画を観た経緯を記しておきたい。「最果タヒ」をほとんど知らない状態で映画が公開されることをネットニュースで知った。詩の映画化という想像がつかない表現方法に惹かれた。石井裕也監督の作品は『川の底からこんにちは』しか観たことがない。失礼ながら針穴ゆえ主演俳優も名前と顔が分かるくらい。知らないことだらけだった。ただ「知らないけど気になる」が重なり合い、いつもならまぁまたいつか、となるところが珍しくこの映画を観てみたいと強く思った。けれど実際時間が取れず、気が付いた時には終わっていた。無念と諦めていたら渋谷で再上映されていると知った。苦手な渋谷を歩くのが億劫で迷ったが、行かなければ一生後悔するかもしれないと思い、退社後、たくさんの人を掻き分けてユーロスペースへ向かった。渋谷駅の改札を出るといつも、さあこれからこの中に突入するぞと一息つくために立ち止まってしまう。

ここまで書いてまだ感想に至っていない。昔から感想文を書くのがとにかく苦手なため、それをわざわざ公開するのは恥ずかしいが、この映画が自分にとって生涯大切な作品になる気がするから記憶が薄れないうちに感じたことを記しておきたい。あくまで私がどう思ったかという主観的な感想であって批評ではない。

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舞台は現代の東京。主に渋谷。主人公は若い男女二人。日雇労働として工事現場で働く慎二(池松壮亮)と昼は看護師、夜はガールズバーで働く美香(石橋静河)。二人は偶然出会う。運命のように何度も。二人とも自分のことを変だと思っている。東京で暮らすことを良く思っていない。二人が初めて交わす会話が「渋谷、好きなの?ぼくはえーとなんというか・・・」「私は嫌い」(私の記憶に基づくので台詞は正確ではない)。

 美香はあまり笑わない。過去のトラウマから逃れられずにいて、得体の知れない不安や憤りを感じているように見えた。世の中の矛盾やおかしさについていつも苦言している。そして愛や恋の意味が分からない。美香が愛という言葉に反応したり「愛はやんわりと人を殺す」「恋愛なんて何の意味があるの」と言う度に私は「愛してるなんてつまんないラブレターまじやめてね 世界はもっと面白いはずでしょ」という大森靖子さんの『絶対絶望絶好調』の歌い出しが頭に浮かんだ。

 片目しか見えない慎二は冒頭から内容のあるような、ないようなことを早口で話し続ける。「うるさい黙れ」と仕事仲間に言われ、「話してないと不安なんでしょ」と美香に言われる。たくさん話す割に何を考えているか掴めなくて難しい人物だった。ただ、心が美しく優しい人に見えた。あの場面とかあの場面とか。

慎二と美香は言葉を放ち続ける。言葉によってこの世界で、東京という街で、生きるための均衡を保とうとしているのかのように。そして度々美香のナレーションで最果さんの詩が挿入される。なぜ詩だと分かるかというと映画を観た直後、原作の詩集を買って確認した。

 

都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。

塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。

夜空はいつでも最高密度の青色だ。

きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい。

そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。

「青色の詩」

 

「青色の詩」は詩集の冒頭に載っている。これらの言葉は場面に合わせてバラバラに挿入されていたので、同じタイトルの詩だとは気付かなかった。唐突に繰り出される詩に最初は戸惑ったが、それは私が最果さんを知らないからだろう。知っていたら「原作と違う」という気持ちで入り込めなかった可能性もあるからその点では良かったかもしれない。映画が進むにつれ、登場人物達の口からも詩と思わしき言葉が直接放たれ、溶け込んでいく(まだ詩集をちゃんと読めていないので確認できていないが)。ナレーションも主人公達の台詞も、多すぎた言葉はやがて二人が二人の間に流れる「何か」を見つけていくに従って徐々に少なくなっていく。これはまさしく言葉の映画だ。全然違うけれどゴダールの『アルファヴィル』を彷彿とさせた。あれも愛についての映画だったような。

一つ一つの場面が丹念に描かれていて生々しかった。工事現場、ガールズバーの休憩時間、何度も登場するストリートミュージシャンと歌、騒がしい安居酒屋、盛り上がらないデート、やる気のない中華料理店、実家、深夜のテレビ番組。煩いのに静かで、眩しいのに暗い。悲しいのに可笑しい。そして絶望的なのに希望と呼んでいいような光がある。葬式、人身事故、犬の殺傷処分、孤独死、映画を通して色濃く続く死の描写の中で息継ぎをするように現れる生の可能性。慎二の同僚をはじめ登場人物全員がどうしようもないのに愛おしい。仔細に描かれた場面や人物が、時々挿入される詩やアニメーションと合わさり、現実と非現実が混ざり合って美しい化学反応を起こしていた。

慎二と美香は何度も会っているのに最後までほとんどお互いの身体に触れ合うことがない。民放のテレビドラマやハリウッド映画ならここで絶対くるぞという状況でも密室でも、手をつながなければキスすることも抱き合うこともない。話している時もほとんど目も合わさない。話は弾まず噛み合っていない。それでも二人が何かどこかで通い合っていることをスクリーンのこちら側で観ている私は薄々感じる。だから終盤、二人が通じ合っていることにはっきり気付いた時、とても嬉しくなった。その時の二人のしぐさや表情が愛おしすぎてここには書けないいくつかの場面がある。二人は何度かメールでやり取りしていたが呼吸のようだった。(昔の恋人から連絡がきて)「まだ愛してるって言われた」と送った美香に対し慎二は「愛してたって言われた」と返す。


地元を離れ東京に来てからずっと、一千万人以上の人が暮らすこの街で、貧困、失業、災害、テロ、殺人、自殺その他毎日暗いニュースで溢れるこの世界で真顔で生きていることが苦しかった。満員電車、繁華街、要るのか要らないのか分からない情報、大量生産大量消費。どこに向かって歩けばよいのか分からなかった。でも、この映画を観た今、自分のいる世界や東京の街がほんの少しだけましに思えてきた(それでも良いとは絶対に思えない)。美香と同じように私も「愛」や「生きること」の意味が理解できない。考えるとどうしようもなくなるから考えないようにしている。この映画はそんな私に明確な答えを提示することはなかったけれど少なくとも顔をあげて前を向くための兆しを与えてくれた。こんな映画をずっと観たいと思っていた。

ユーロスペースを出ると映画で観たままの眩しくて騒々しい夜の渋谷があり、映画と現実が地続きになっているような不思議な心地がした。意図せず渋谷で観たが、思えば映画の舞台となった場所でそれを観た経験は初めてのことだった。感じた兆しを失わないように、受皿から溢れないように、できるだけ急いで駅に向かって電車に乗って帰宅した。まだ上映している映画館があるようなのでできることならもう一度観たい。嬉しいことにDVDも近日発売されるらしい。これから何度も必要になると思うから手元に置いておきたい。そして最果タヒさんの詩を知りたいと思った。

観なかったら一生後悔するところだった。今私にもっとも必要な映画だった。