(続)海の音

雑念のメモ

KILL MY DREAMとは

大森靖子さんの今年のツアータイトル "KILL MY DREAM" に込められた意味について何度も考えた。

直訳「夢を殺す」とは。Kill つまり「殺す」は「他人や生物の命を奪うこと」、命を終わらせることである。英語のkillはゲルマン祖語のkwuljanaが語源であるらしい。kwuljanaの語源は印欧語根gwelH- (打つ、投げる、突き通す) が語源。どうしても「命を奪う」、有から無へ減らすイメージを持ちがちだが、英語の語源が「打つ」や「突き通す」なのであればマイナスというよりはむしろ動的なイメージが沸く。killは他動詞でありこの場合、MY DREAMが目的語である。他人やあなたの夢ではなく私の夢。インターネットで調べてみたらdreamの語源は、中期英語 drem(夢、空想、音楽)らしい。dreamに音楽という意味が含まれているのは知らなかった。「私の音楽を突き通す」とも解釈できるだろうか。そうだとしたら面白い。「夢を殺す」ことが同時に「音楽を突き通す」ことでもあるということか。ただこれは個人的な想像上の解釈でしかないので、実際タイトルに込められた意味や背景は大森靖子さん本人にしか分からないし、あえて受け手が自由に解釈する余白が残されている気もする。歌詞の解釈もそうだが、正解なんてない。芸術とはそういうものだ。

 

などと机上で熟考したところで、結局はライブで観た光景がタイトルへのアンサーなのかもしれないと計三か所のライブへ行った今となっては思う。個人的に最後に行った岡山公演が忘れられない。行くのが簡単でなかった(距離の問題ではなく状況的にという意味で)が直感でこのライブは絶対に行かないと一生後悔する気がした。結果、行ってよかったと本当に思っている。あの日の行動を選ばなかった今があったかと思うとぞっとする。

 

岡山公演で大森さんはライブの終わりに「これは子育てをしていて感じたことでもあるのですが…」と前置きされ、「夢はどんどん潰していった方がいいと思うんです。夢を叶えず夢のままにしてるから夢であって。夢は殺していった方がいいです」(意訳)と話された。はっとした。本当にその通りだ。昔話のヒロインじゃないから、強運の持ち主じゃないから、いつかやりたいなと願っているだけでは抱いた夢はわずかな確率でしか叶わない。夢や理想は甘美だが叶えていない限り具現化されない。額に入った餅だ。小さい頃ドラえもんの映画で観て怖かった砂漠で見える辿り着けない蜃気楼。ずっと頭の中で夢想を繰り返すならその夢をひとつずつ潰していく方がきっとずっと楽しい。行動したところでうまくいくとは限らず納得のいかない結果や失敗、厳しい現実が待っているかもしれないが、自ら叶えようと動いた時に初めて目に見える景色が必ずあるのではないだろうか。夢が大きすぎて届かないなら手法を変えて今の自分の能力でできることから地道に繋げるしかない。毎日は地続きだ。良くも悪くも。行動した結果叶わなかった時も手元に残るものはあるはずで必要があれば形を変えて何度も試してみないといけない。そんな学校でも家でも会社でも教えてもらえなかったことを私は大森靖子さんという一人の超歌手に教えてもらった。岡山で「ミュージシャンがよくやる」という客席ごとの声出し振り分けをされた後「初めてやりました、もう10年になりますが」と呟かれた大森さん。お誕生日でメジャーデビュー10周年を迎えられた。10年、いやデビュー前も含めると10年以上ずっと歌い続けてきた大森さん。他に類を見ないほど毎年すごい数の現場を重ね、新しいアルバムや楽曲を作られ、アイドルグループという夢も現実として見せてくだり、一貫して音楽を追求されファンが楽しむ場を創り続けて来られた。何年も音楽を続けることで「KILL MY DREAM」を見せてくださっている。そのエネルギーや活動量は到底真似できるものではないが私も何か動きたい、自分が頭に描いたことを形にしてみたいという意欲に駆られる。実際自分が踏み切れたこと、新しく挑戦したこともあった。音楽ライブに行くというのも夢のひとつだった。したいことをしたことに変えたい。神様や他人に依存した他力本願ではなく自力本願とでも言うのか、個々人が一人ずつ握りしめた大小様々な「何かしたい」「叶えたい」というエネルギーの爆発の繰り返しの果てが生きるということなのかもしれない。それがたとえ「可愛くメイクして出かけたい」「新作アイス食べたい」でも「好きな音楽を聴きにライブに行きたい」でも「転職したい」でも「アイドルになりたい」でも何かしようとする生身の感情であることには変わりがないのかもしれない。その感情全てが可愛いと肯定してくれるのが大森さんの音楽だ。お寺でのライブ中ずっとそんなことを考えて涙が止まらなかった。

 

「犯罪を起こした身で夢なんか持ってない」これは最近ニュース記事で見かけた某事件の犯人の言葉(たしか前科を起こした後の事件前の言葉)だが、どんな立場であっても夢を持って良いのではと思う。遠く離れた場所にある大きな願望ばかりが夢ではなく、何か自分が好きだと感じること嬉しくなることを法律を破らず他者を傷つけない覚悟で達成しようとする試みも含まれるとしたら夢はそう難しくない。その定義であれば誰でも夢を持てる。誰かを憎んだり攻撃する暇があれば夢の実現化を図る方がずっと楽しい。あの事件の犯人が自分の夢を叶える代わりに多くの人の命の奪うことになった虚無感や悲しさについてずっと考えてしまう。私がここで今考えたところで、何度も裁判したところで奪われた命は戻らないのがまた悔しい。好きなもの、たしかにあったんじゃないのかな。愛し方を知らなかっただけで。

 

こんな歳になっても生きる理由や意味を見い出せないまま毎日を繰り返してきたし未だにはっきり分からない。ふとした瞬間にどういう理由で自分がこの世界に存在しているかわからなくなり怖くなる。でも、好きなことや人、心が嬉しくなることなら私にもある。お金も時間もないから一部しか叶えられないが可能な範囲で叶えてみようとする。きれいじゃないかもしれないけど、好きなことをする瞬間の衝動や必死になるエネルギーの煌めきを「わ、きみの光り方可愛ね」って抱き締めて生きる理由のひとつにしたい。そんな風に最近考えている。あの時よりは大人になったかな。