(続)海の音

雑念のメモ

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元々吐きそうなぐらい嫌いな自分の顔と身体が老いという避けられぬ要因により更に醜くなっていく様を鏡で確認する度に外に出たくなくなり誰にも会いたくなくなる。縋るような思いで夜中に全然知らない可愛い女の子の自撮りや友達と過ごす様子をネットで漁って何時間も見ている。ああ可愛い可愛い。救われるー。そうやってると朝が来る。楳図かずおの『洗礼』みたいで我ながら怖い。今日も朝から身体が不調で動けなくて、でもあの人はしんどくても頑張ってるし息子はどこからか薬探してきてだいじょうぶだからねって言ってくれる。好きなブランドの秋冬が立ち上がって一目惚れしたあの洋服の表面に施された鮮やかな刺繍を今日はそっと触れに行きたかったけど着替えて化粧してオムツやら何やらでっかい鞄に詰めて電車に乗って街に出てって考えたら何かもう全部無理になってとにかく近所の公園行こう。公園で息子とおにぎり食べよう。こんな醜い顔で似合わないかもしれないけど馬鹿高いあの洋服に触れに行きたい。着るだけでその人のスイッチが入るような服を作りたいって言っていた人が泣きながら作ったその服が好きだから。下書きに入れたまま何となく公開できないでいる日記がどんどん溜まっていく。一番好きな季節がすぐそこにいるのを感じる。

たかがゼリーポンチ、されど

京都の喫茶店、ソワレのゼリーポンチを食べた。しかし京都へ行ったわけではない。

池袋西武で「菓子博」なる全国からお菓子屋さんが集結するイベントが開催されている、そしてゼリーポンチが来るらしいから食べてみたいと友人が連絡をくれた。行きたいと即答した。だって食べたいから。正確に言うと食べたいというより見たいから。

 

喫茶ソワレのゼリーポンチ。乙女の代名詞のようなメニュー。いわゆるインスタ映えするメニューだと思う。

インスタもツイッターも世界に存在しなかった十代のある夏休み、京都を訪れた。京都へ行ったら、今も無知だが今よりもっと無知だった私に関西の色んな面白い場所やお店を教えてくれたバイブル的情報誌・Lmagazine(地域と世代が合ってそうそうエルマガめっちゃ読んでた!という人にたまに出会うと興奮する)で紹介されていた美しい喫茶店でゼリーポンチなるものを食べてみたい思っていた。しかし訳あってソワレには行くことができなかった。

それから十数年が経過したが、ネットや雑誌でソワレが何度も登場する度に「はっ、また出たな。人の見た光景なんかいらん。いつか絶対行くからな、待ってろソワレ待ってろゼリーポンチ」と勝手に一人で悔しがり誰かが撮ったおしゃれな写真を直視できず雑誌のページは急いで閉じた。いわば、ゼリーポンチに対して拗らせていた。

上京するまで京都は数えきれないくらい訪れたが、なぜかソワレに行くことができなかった。行きたいのに行けなかった。拗らせてるから。何かのついでに行きたくなかった。何ならゼリーポンチを食べるためだけに京都に行き、あの空気にずぶずぶに浸り、店を出たらすぐ帰るぐらいの心意気で臨みかった。とか言ってる間にメディアでの紹介頻度は増した。でも行列して入店するのもなんか違う気がして嫌だった。完全に拗らせてる。

就職を機に関西から離れると京都に行く機会は激変しソワレに行かぬまま数年経過、その間自分史上最大の事件とも言える妊娠出産を経験し、京都自体訪れることがなくなった。

それでも雑誌の京都特集で常連のように登場するゼリーポンチを見かけるとスルーできず、一体自分はいつ行けるのだろうか子連れで京都なんてまず無理だから10年後かもしれない等と考えていた矢先。

本場で食べなきゃ意味ない、店で食べるのとは味が違う、ソワレみたいな喫茶店は京都の街や店の雰囲気込みで味わうものだからデパートの催事で食べても意味ない、などの意見があるとすれば全部無視したい。

違う。そんなの分かってる。河原町のあの場所、フランソワ喫茶室と同じ並びにある海の中みたいに青い照明のお店で食べた方がそりゃあいいに決まってる。あの夏の夕方、行けなかったソワレ。食べられなかったゼリーポンチ。通りに人は少なく、暑くて静かだった。

色々な当たり前にできていたことが出産後、当たり前でなくなった。一人で行きたい場所に簡単に行けなくなり、したいことは簡単にできなくなった。助けがない状況下での子育ては不自由さを伴うものだともちろん出産前に理解していたつもりだったが、甘かった。

当然、子どものおこだわりを優先すればするほど自分のおこだわりは削られる。それは不自由でありながら案外悪くはない。本当に必要で大事な部分だけ残った。削られて純度が高くなった。会社の飲み会やあまり行きたくない集まりなど気が乗らないものは断ち、本当に行きたい場所に行き本当に好きな人にだけ会うようになっていった。意識したわけでなく仕方なく。それでも叶わない場合はさっぱり諦めたり、目的に応じて子どもも連れて行くことも覚えた。

 ベビーカーで混雑した催事に来ている、騒ぐ子どもと列に並んでいる、大人だけだと必要ない席まで余分に使っている。分かっている。きっとある人には異様な光景で、ゼリーポンチ食べるために何もそこまでしなくてもねぇと思われているだろう。分かっている。子連れで何でも許される優遇されて当然なんて今まで思ったことはないし、人様に迷惑をかけないように常に意識している。

 

その上で見た、あの光景。お花みたいな受け皿に乗って現れたあの子。しゅわしゅわのソーダに沈むキラキラの色鮮やかなゼリー。フルーツ。小さい頃、夏休みにおばあちゃん家に行って特別に玩具のアクセサリーセットを買ってもらった時みたいな懐かしさと憧れの入り混じった気持ちが一瞬で湧き上がる。

これはなにいろ?黄色だよ。これは?緑だよ。どの色が好き?サイくんはあかいのがすき。ピンクだね、お母さんもね、ピンクが好き。

スプーンで掬うたびに宝石の煌きが目の前に溢れてうっとりする。あれだけ思い焦がれたゼリーポンチはソーダもゼリーも甘さを抑えた大人の味だった。甘すぎなくて美味しいね、と友人と言い合った。

ゼリーポンチを待つ行列は更に増えており、席から順を待つ人達が大勢見えていたし、インスタ映えからは程遠い写真しか撮れなかったし、ガヤガヤと煩いし、子どもは食べ零すし、とにかく落ち着かなかったけどあの瞬間、幸せがあった。なんか生きててよかったって思った。

一人だと絶対にまた行かずに終わっていただろうから、今回誘ってくれた友達にありがとうの気持ちしかない。いつか分からないけど、必ずソワレを訪れたい。こうやって色々な面倒や与えられた境遇と日々折り合いをつけながら大切を失わないようにしたいなぁ。

 

ゼリーポンチへの拗らせおしまい。

好き

明け方、洗濯物を干しながら好きな人の曲、私が初めて聴いたその人のアルバム、を聴いていて、うおおおやっぱ好きだと思った。歌詞もメロディも声も歌い方も全部好きだ。それで歌ってない時はあの感じ。あの優しさ。ああ、好き。

私はこの人に音楽って面白いんだなって教えてもらった。出会うまで音楽なんてよく分からなくて自分には一生無縁だって思っていた。でも本当は知りたかった世界。もう手遅れだと思っていた。そしたら針穴みたいな入り口から覗いてくれてよかったらおいでって囁いてくれた。

好きだと思うってアルバム貸してくれた人、好きな者同士集まる人、敢えて好きを共有しない人、色んな人を見てきたけど私は何になるんだろう。ただ好きで好きで仕方がない。

こわい

人に会うことが怖い。自分みたいな人間に会ってくれようという人は数多くはいないがゼロではなく滅多にない予定が入ると死ぬほど嬉しい反面その日が近づくにつれ不安ばかり募る。風水とかそういうのは一切信じないタチだが自分が今持っている邪悪な空気とかマイナスの感情を気付かぬうちに香水がキツいおばさんみたいにこれから会う相手に大量に振り撒いたらどうしようと考え始めて楽しみな予定を入れても怖くて怖くて押し潰されそうになる。過去に気に入った商品やお店は例外なく見かけなくなったり潰れた。最初は偶然かと思ったが毎回だった。考えれば人もそうかもしれない。だからいつからか、本当に好きなお菓子は毎日買わないことにして、常連になりたいぐらい好きなお店を見つけても毎日行きたいのを堪えてそこまで気に入ってない風を装う。そうやってきたみたいにもう誰かを悲しませたり誰かの何かを壊したりしたくない。あぁこわい。

夢日記7/29

話したことのない男性社員に突然、満面の笑みで「たまごの殻に乗って航海したことありますか?」と突然話しかけられて、私は嬉しくて舞い上がり「えー!私もずっとたまごの殻に乗ってみたかったんです!そんな人がいたとは嬉しい!」と歓喜したら男性社員は「ははは、やっぱり乗ってみたいですよね〜。僕はムール貝の殻とかもいいなぁって思うんです。」と答えた。へぇ、ムール貝の殻もよさげだな思った。

 

 

 

会社はもちろん今働いてる会社じゃないし、男性社員は夢の中で作った人だから実在しない人。なぜ自分が賛同したかも分からない。多分寝る前に息子とドラエもんを観て、スモールライトのシーンと新しいドラエもん映画(海賊?)の宣伝シーンが脳内に残っていたのだろう。男性社員が笑ってるイメージはこれもテレビで観ただいすけお兄さんの印象から作られた気がする。

死際

自分が好きだからといって相手も自分を好きかわからないから愛とか恋とか信じられなくなっていつからか自分の好きは布団圧縮袋にしまって騙し騙し生きてきたけど何かが間違っている気がするし押入に残したまま死んでいくと思うと殊更恐くなってきた。死ぬ直前に思い出してやっぱあれ出しときたいって押入から引っ張りだそうとしても、そもそも家に帰れないなぁって泣きながら涙を拭くこともできないで天井をただ見つめていそう。ナースコールも押せない身体で。死際に初めて正直になれるかもしれないがなったところで時既に遅し。

65歳男性(趣味は釣り)になりたい

とある方で、その方が他の人に教えたのをきっかけに私が生涯かけて追いたいと思うほど好きになったものがあり、だからありがとうを伝えたくてずっと話してみたいと思っていた方(既婚者なので恋愛関係になりたいとかは断じてない)がいて、その方に一度だけお会いした時、あまりにも緊張して全然話せなくて、私がそんな感じなので向こうも何も話してくれなくて結局話したいことは何一つ話せなかった。

後日、「かわいい女子とは緊張して話せない」と本人が言っていたと奥様から聞き、それが例えお世辞でも嬉しくてビール何杯でも驕りますよの気持ちになったが、もし私がそうさせているのであれば私に原因があるということになり何だかなぁという気持ちになった。

己の見た目が可愛くもなければそもそも「女子」と名乗る年齢でもないのは重々承知しているが、最低限、見た目だけで人に不快感を与えないようには心がけている。いつもではないができる限り髪は梳かして人並みに(か分からないがまずまず)化粧はする。洋服も基本的に好きなものを着ているが、半裸とか露出とか不潔とか他人がげーって思うような恰好(完全に自分基準)はしない。だって見た目だけで嫌な気持ちにさせてコミュニケーション自体が遮断されたらそれってとても悲しいと思うから。と思っていたのに逆にそれが仇となっているなら一層悲しい。半裸で血を流して気が狂ったような恰好をすればその人は私と話してくれるのだろうか。それはそれで怖がられて円滑なコミュニケーションの障害になるかもしれない。

じゃあ一体どうしたらよいのか。詰まる所、他人に対してどうのこうのじゃなく、自身が自信(駄洒落じゃないヨ)を持った格好をしてれば一番魅力的なんだろうけど、人にどう見られるか、人に不快感を与えたくないという余計なエゴが常に邪魔をしてくる。悔しいことに最後のところで捨てきれない。いっそのこと、ミュータントみたいに全人類の見た目が同じで服も着ず皆丸裸で街を歩いているのが当たり前の世の中だったらいいのになと思う。同じ見た目のミュータント達がお互い話して初めてどんな人か分かるというような。でもそうなると没個性となり彩のないつまらない世界になりそうだ。歩いていても誰が誰か分からない。おしゃれも奇抜さも何もかも存在しない世界。内面的な精神だけが求められる世界。うう、それってどうなんだろう。外見って難しい。大森靖子さんがよくおっしゃっているように毎日その日の気分で性別を選べたら楽しいだろうな。欲を言えば年齢も選びたい。今は65歳くらいの初老男性、ジャングルポッケみたいなポケットがいっぱいついた釣りジャケットを着て帽子を被っているようなおじさんの外見になりたい気分。