(続)海の音

雑念のメモ

大森靖子2018「COCOROM」ツアー 神戸公演@チキンジョージ (2018.6.14)の記録

6月7日恵比寿・リキッドルームで始まった「COCOROMツアー」は翌週15日京都・磔磔にてツアーラストを迎えた。「プチツアー」と表記されていたとおり、いつものツアーに比べて公演数は4公演と少なく期間も短い。新作アルバムに紐付いたツアーでもない。そんなツアーは大森さん至上初めてだろうか。COCOROMツアーが発表されたのはMUTEKIツアーファイナルの中野公演・終演後に配られたチラシだった。ツアーラスト終演後に次ツアーの情報が解禁される、それはよくあることだ。チラシをもらって「あぁ嬉しいな」とは思うが性格上、直前に観たライブの余韻で頭がいっぱいなので次のツアーをいつもすぐに考えられない。でもCOCOROMのチラシを見た瞬間、私は興奮した。神戸が入っていたからだ。


今まではっきり言及するのを避けてきたが、神戸は地元である。幼少期に越して来てから就職して東京に上京するまで約20年間、神戸に住んでいた。好きな歌手が地元でライブをしてくれる、これはきっと誰にとっても嬉しいことだと思う。今回のライブ記録を書くに当たり、神戸が地元であることを言及せずに書くのは難しいと判断した。記録しないで胸の内にしまっておくべきかと最初は考えていたが、個人的に重大な日だったので文章として残しておきたかった。ビバラポップ!の前に大森さんが言われた「歴史風俗資料」でありたいという気持ちも少しある。


他にもきっとあるかもしれないが、大森さんがライブをしに神戸に来られた時を二度知っている。知っているというより後で知った。一度目は2012年6月30日、元町映画館で行われた『MOOSIC LAB 2012』というイベントに大森さんが参加されミニライブを行った時。(同年、岩淵監督の『サマーセール』が上映されていたのでその関係かもしれない)。二度目は2014年3月2日の「絶対少女が夢見るBBa'14ツアー」神戸公演の時。塩屋にある洋館、旧グッゲンハイム邸でライブをされた。2012年はまだ大森さんの存在を知らなかったから仕方がないとして、2014年3月の旧グッゲンハイム邸はちょうど大森さんを知った頃だった。しかし地元でライブがあることも知らなかった。ライブに行くという行為自体怖かったので調べようともしなかった。それを後からずっと後悔していた。旧グッゲンハイム邸は実家からほど近い。どれくらい近いか言及できないくらい近い。幼少期からすぐそこにある建物という感じで何度も前を通った。電車に乗れば塩屋駅を過ぎる時に必ず見える。存在が当たり前すぎたが自分の足で建物の前まで行ったことはなかった。近いからこそ行かない場所というのは案外あるものだ。ひっそり建っている印象だったので、ライブや演奏会が行われるスペースとして使われるようになったのはわりと最近なのかもしれない。大森さんを知りライブにも行くようになってから、よく知っているあの場所で大森さんがライブをしたと知った時、同じ時代に生きていてその瞬間を逃してしまった自分をどれほど悔やんだか、他には例え難いものがあった。

 
1年半ほど前、神戸公演に行けなかった誰にも言えない悔しさを大森さんにDMで伝え、最後に「いつか神戸にてもう一度ライブを開催していただけますでしょうか」と書いた。悔しさを言葉に換えただけで満足していた。でも届いたDMは必ず読んでいると大森さんは言われていた。その時は「神戸いきたいー!」と返事が来た。一度ツイッターのアカウントを消してしまったので、もうそのDMは見られないが画像で残してある。大森さんは嘘をつかない。『死神』は「履歴書は全部嘘でした / 美容室でも嘘を名乗りました / 本当の僕じゃないのなら侮蔑されても耐えられる」(表記は聴き取りによる)と始まる。過去、同級生に対してこういう人だと誤解されるのが面倒臭くて嘘の自分を演じていたという話も本人から聞いたことがある。そういう嘘ではなく、意思の嘘をつかない。自分自信に対する嘘。やろうと思ってないことをやりたいと無責任に言われない。これまで大森さんや我々の夢が現実になった光景を何度も見てその度に驚かされてきた。好きな人とステージで共演したいという意思を持ったら本当に叶えてしまう、それが大森さんという人だ。こうして書くと簡単だが簡単なわけがない。信念を貫き通して地道に積み重ねなければなし得ないことばかり見てきた。だから返事が来た時、どうしようもないくらい嬉しくて子どものように安心し、いつかその日が訪れるのを待っていようと思った。

 
そして「COCOROMツアー」が発表された。ついに神戸が入っていたこと、それ自体が私信だと思えた。COCOROMとはどういう意味なのか。MUTEKIツアー終演後、大森さんを私に教えてくれた友人と語り合ったがはっきりとした答えは出なかった。「COCORO/ROM」つまり「読み取り専用」「書き換え不可」になってしまった心という意味なのか、などと考えたがそこで議論は止まった。ツアー開始前、COCOROMとは何を意味するのか、ファンにより色々な推測がされていた。「COCO」が「孤と弧」あるいは「個々」、「COCOROM」が「試み」など、自分では考え付かないものもあり全てが興味深かった。それらにヒントを得て私も直前まで考察した。大森さんは恵比寿で「ROMって通り過ぎてたみんなの心をライブで取り戻していきたい」というようなことをさらっと言われていた気がする。「ROMる」とはネット用語で掲示板などで書き込まず読む専門の人のことを指すらしい。考えていたことと少し違ったが、要は来た人が主体的に心を動かせるようなライブをしたいということだろうか。ライブ中、大森さんは楽しい、楽しいと連呼されていた。確かに楽しかった。各々が「楽しむこと」が今回のツアーのテーマの一つなのかとも思った。でも初日の恵比寿を終えた段階でCOCORMツアーの意味を私はまだよく掴めていなかった。全国15箇所にて弾き語りで行われたMUTEKIツアーを終え、次のアルバムが出る前にこのツアーが行われる意味。

 
ようやくここから神戸公演の話。私はいつも前置きが長い。どうしてそこへ至ったか説明したいと思う気持ちが強すぎる余り話の軸がよくずれてしまう。神戸公演が決まった時からカレンダーに書き込み、6月14日という日にちを繰り返し眺めていた。ばっちり有休も取った。大森さんが神戸に来る、それだけでドキドキした。前日の夜中、ふと思い立って飲食店を中心とした神戸の観光情報をA4一枚にまとめた。ほとんどが約10年前の記憶に基づいているので、ガイドとして機能するのか不安になりつつ知っている情報を書いた。学生時代バイトしていた時にお昼休憩でよく行ったお店や地元の友達が過去に連れて行ってくれたお店。できることなら地図なんかもつけて詳しく書きたかったが時間がなく、ごく簡単なものになった。何をするにもギリギリに思いつきでやろうとするから時間がない。でも大森さんや新ガイアズのメンバー、二宮さん美マネさんやファンの人が来てくれて嬉しいという気持ちを何らかの形で表したかった。よく神戸の人は神戸が好きすぎるよね、と言われるがそれは否定できない。私は神戸が好きだ。それは決して地元にまつわる全てが好きだということではない。実家の家族に会うのが憂鬱な時もある。帰省して会うような友達もほとんどいない。できれば会いたくない人が多い。握り潰したい思い出もある。でも神戸という土地そのものが好きだ。当たり前みたいに海が見えて山もある。貿易都市ならではの多様性を認める寛容さがある一方で、他者に踏み込みすぎない冷ややかさもある。大震災を経た哀しみも未だに残っている気がする。自由で孤独な街だ。そこに好きな人が来る。事件だ。

 
ライブ当日に帰省し一旦実家で荷物を置いた後、ライブまで時間があったので旧グッゲンハイム邸に行った。何度も見てきたのに敷地に入ったことはなかった。今日のライブを迎える前に大森さんが4年前に来た場所を辿っておきかった。旧グッゲンハイム邸は現在、月一度の見学日を除き内部見学することはできない。ライブや演奏会や結婚式その他イベントのためのレンタルスペースとなっている。歴史的な建築物がただ保存されるのでなく建物が生きたまま活用されることを私はとても良いと思っている。大森さんが過去のライブやMUTEKIツアーで訪れた会場もそういう場所が多い。この日も何か行われていたようだ。旧グッゲンハイム邸の敷地に入るには踏切を渡らなければならない。踏切を渡ると敷地に繋がる小さな階段がある。ローカル私鉄が通る線路の踏切なので頻繁には閉まらない。踏切が開くのを待ちながら、「大森さんも4年前ここで待ったのか、その時何を考えていたのかな」などと考えていた。南国風の植物が植えられた敷地内はひっそりとしていたが、建物に近づくと人の声がした。ずっと見ていたのに初めて見たような不思議な心地がした。思っていたより小さかった。断りなく勝手に入ったため、ずっといると怒られそうな気がしたのでしばらく建物を見たら退散した。建物を背にすると海が見える。この日の空は少し曇っていたので海の色もどんよりとしたブルーグレーだった。海風が吹いていた。人が変わっても海はいつでも変わらずそこにある。それに何度安堵してきたことか。三宮までの電車で、もう大森さんは神戸にいるだろうなと思ったら急にドキドキしてきた。


三宮駅に着いて、この店まだあったのか等と考えながらぼんやり道を歩いていたらチキンジョージに到着した。ぼんやり歩いていたら着くなんてことは東京ではまずあり得ないことだ。会場付近には大森さんのTシャツやグッズを身に着けている人がたくさんいて、地元でそういう光景を見ているのが不思議だった。いつも東京で見かける顔を知っているファンの人はほとんどいなかった。物販を済ませてライブまで時間があったので街を散策した。歩いていたら急にお腹が空いてきて、餃子でも食べようかと行ってみた好きなお店は開いていなかった。学生時代よく行っていた好きな古本屋さんに行ってみたら運悪く臨時休業だった。結局、ライブ直前に知人と合流するまで特に何をすることもなく一人で街をふらふら歩いていた。チキンジョージは生田神社の横にあり、その前には東急ハンズがある。この東急ハンズは地下鉄三宮駅と直結しているため、大学時代の飲み会などで待ち合わせ場所になることが多かった。「ハンズ前18時な」という感じで。だからハンズ前の信号を待っている時、私はこれからチェーンの居酒屋で飲み放題付一人3000円の会に行くのだったっけという錯覚に一瞬捉われた。過去の記憶と現在の自分がぐるぐる混ざっていた。回想したり、昔好きだった先輩とまさにこの辺りで交わした会話のことなど考えてぼんやりしていると青柳カヲルさんがデザインされた意識高いTを着た人が急に視界に飛び込んできてはっと目が覚めた。見知らぬ人の背中に浮かぶ「愛死天縷 孤夢」という文字や鮮やかな色彩を見つめていたら、過去と現在が電流がぶつかり合うようにバチバチ衝突して痛くて泣きそうになった。


ライブの記録なのにライブが始まるまでの描写が長すぎる。開場時間が近づき会場の前で整列する。チキンジョージの存在は知っていたが当然中に入ったことはなかった。ずっと音楽が怖かったのでライブはもっと怖かった。ライブハウスは自分とは一切関係のない場所だった。そこに今入って行こうとしている。番号が呼ばれて地下への階段を降りながら後ろめたさを感じてドキドキした。あの時あんなに遠ざけていた場所に嬉々として入っていく後ろめたさ。会場は思ったよりも小さく、もちろんリキッドルームとは比べものにならないくらい狭く、地下のライブハウス!という感じがした。広くない会場は最前以外はバーや仕切りがなく、真ん中より前方にアーチ状のコンクリートが柱になり仕切られていて、その奥にステージがあった。古代西洋の舞台のようだなと思った。既にステージ前方には人だかりができていて、私も大森さんがよく見えそうな真ん中寄りの場所に立った。その時この規模の会場でバンド編成の大森さんを観るのは初めてという事実に気が付いた。

 
ステージ前方に置かれたテーブルにはいつものようにナナちゃんが座っていた。新衣装を着ている。そのすぐ側にピンクのマイクスタンド、楽器や機材や配線、ハイパーのサクライさんが使うPCがあり、ドラムセットがあり青柳さんの魔法陣が描かれたタペストリーが迫っていた。背後にきっと大森さん達がそこから出て来るであろう茶色いカーテンがあった。それぞれの距離が近く密集していた。アーチ状の柱のせいかステージ側は暗く、観客の待つこちら側は明るかった。楽器や機材が暗いステージでひしめき合って静かに呼吸しているのを感じ取った。暗闇に生き物が蠢いていて、見たことはないが死の世界、冥界みたいだなと感じた。ざわざわと話し声が絶えないこちら側が「人間が住む生の世界」に思えた。対極だった。一つの会場に生と死が混在していた。ナナちゃんは冥界の主のように暗闇に座り、明るい観客側を静かに見ていた。その表情は無だった。ライブ前の観客の様々な魂を吸い寄せようと集中しているようにも見えた。私は話す人がいなかったこともあり、ナナちゃんを自分が立った場所からじっと眺めていた。そうすると冥界に呼ばれるように自分の魂が体内から抜け出てナナちゃんの元までふわっと浮遊していくのを感じた(あくまで意識の問題。実際にそうだとただのオカルト現象になってしまう)。あちこちから聞こえる関西弁や笑い声がふっと遠のいていく。そろそろかなと思ったら、懐中電灯を持ったスタッフが現れて配線を修復していた。彼らが死体を発掘するため冥界に行った調査隊のように見えた。

 
そんな風になっていたらついにバンドメンバーが登場した。わーっという歓声と拍手が巻き起こる。いよいよ始まる!という実感が突然沸き、冥界に足を突っ込んでいた私はそうだこれからライブが始まるのだと身を引き締めた。大森さんが登場されて更に沸く会場。バンドの音が鳴りステージがぱっと明るくなった瞬間、それまで「死」であった冥界が「生」に反転した。

 
恵比寿のセトリが名古屋でもアンコールの『お茶碗』を除きそのまま踏襲されたと事前に知っていたため、神戸でも同じセトリがくると予想していた。予想通り『絶対絶望絶好調』で始まり『生kill the time 4 you、、』『非国民的ヒーロー』と続き会場の温度はぐんぐん上昇していく。大森さんが「死の淵」に転がっている観客の魂に手を伸ばして一つずつ拾い上げていくような引力があった。いつの間にか観客側が「死の世界」に変わっていた。ずいっずいっと引っ張られるような感覚が恵比寿の時より強くあったのはきっとリキッドルームよりチキンジョージが空間的に狭く天井も低く、バンドの音や大森さんの歌声がより自分に密接してダイレクトに向かってきたからだと思われる。また、セトリが予め頭に入っていたため曲を受け取る準備が自然にできていたというのもあるかもしれない。

 
私が初めて行った大森さんのライブは2016年4月に新宿ロフトで行われた「大森靖子緊急自主企画●スプリング!センセーション!~生kill the time 4 loft~」で、ライブ参加者はMVと同じように白シャツがドレスコードだった。生まれて初めて自分でお金を払って行ったライブであり、生まれて初めてバンドの音を生で聴いた。それ以降観た大森さんのバンド編成は数えるほどしかなく、ZEPPなど大きい会場ばかりである。だから今回のライブは初めて行った新宿ロフトが状況的に一番似ている。とはいえチキンジョージはロフトより更に小さい。ライブタイトルの『生kill the time 4 you、、』で始まった瞬間の高揚をまだはっきりと覚えている。今回のツアーで同じように冒頭に『生kill the time 4 you、、』を聴き、あの時の身体中の血がわっと集まる感覚が蘇った。

 
いつもと違って面白いなと思ったのが一曲終わるごとに拍手と歓声が響いていたことだ。大森さんのライブ(特に弾き語り)では曲が終わって次の曲が始める前に拍手がないことがある。私は音楽やライブについて無知すぎる余り、小学校の演奏会の経験で音楽を聴く場では「曲が一曲終わったら必ず拍手をするのが絶対的マナー」だと真面目に信じ続けてきたため、初めて大森さんのライブに行って全ての曲で拍手が起こるわけではないと知った時は戸惑った。今でも慣れておらず、誰も拍手していない時にしそうになる時がある。大森さんはライブ全体における曲から曲への流れを強く意識されていて、「一曲終わった、はい次」とあまり分断されない。弾き語りでもバンド編成でも曲の終わりがそのまま続くように次の曲が始まることが多い。ライブが進行する流れを遮らないよう聴き手も拍手を控えるタイミングを自然に覚えたのかもしれない。でも神戸公演では曲が終わる度に握手と歓声が起こり、それは意外だったが自然で暖かかった。心地良かった。拍手と歓声は観客の声、聴き手である私達の声だ。音楽を届けてくれる大森さんやバンドへの返答。だからか、前述のように狭い空間で音と密接していたからか、大森さんに内臓を鷲づかみにされて掻きまわされるようないつもの感覚ではなく、自分からぐっと中へ踏み込んでいる感じがした。中とは?大森さんの体内だろうか。ライブ会場が大森さんの身体だった。大森さんが心臓でバンドが他の内臓や筋肉で私は血でそれぞれが共鳴し合っているような感覚があった。だとしたらナナちゃんは脳だろうか。一人の人間がライブという限られた時間で誕生し呼吸していた。蠢いて「動」=「生」と「静」=「死」を繰り返していた。この感覚はきっと誰にも分かってもらえないが分かってもらえなくて良い。

 
『イミテーションガール』の「おかえり」は神戸に帰って来てくれた大森さんへの叫びであると同時に過去の自分へ向けたものでもあった。音楽が怖くて拗らせていた私は拗らせたまま大人になり、上京し東京で大森さんに出会い、その何年後かのこの日、音楽を切り捨てて生きてきた地元にようやく戻り、本当の意味で音楽に再会することができた。全力で「おかえり」を叫んだ。数時間前に階段を降りていた時に感じた後ろめたさはもうなかった。だからその後の『マジックミラー』を聴く姿勢がこれまでと違った。いつもは「大森さんが歌うことに対してこれほど深く向き合っているのに私は同じ熱量で日々生きられているのだろうか」という罪悪感で苦しくなることがあるのだが、この時はたった今大森さんを地元で聴いているという事実、それが自分で成し得たものでないにせよ、ここまで辿り着けたという絶対的な安堵に守られていた。『マジックミラー』あたりから大森さんは時折、ファンと目を合わせる時とは違う、背筋がぞくっとするような冷ややかな眼差しをされる時があった。何かに反発して睨みつけるような感じではなく、ただじっと空を見つめているような眼。SAYUMINGLANDOLLの時の道重さんの表情に重なるものがあった。恵比寿で初めて気づいた時、大森さんにはこんな表情があったのか、と私のまだ知らない大森さんを知りドキドキした。 


開演以降、わりと前方にいたにも関わらず圧縮がなかった。紳士的だと思っていた観客が『ミッドナイト清純異性交遊』が始まってから、ざざっと前に寄った。後ろから苦しくない程度の圧縮を感じた。観客が大きく動くのをこの日初めて見た。それまで飛び跳ねたり周りに迷惑になるくらい激しくペンライトを振る人はいない印象だった。東京でも大森さんの現場はわりと大人しい印象だが、会場が大きくなるほど色々なお客さんがいる。神戸はもしかしたら初めてのお客さんもたくさんいたのかもしれない。大阪も京都も同じ関西だが、神戸の人は神戸が好きすぎるので外に出ないことが多い。同じ関西で近いとはいえ距離もそれなりにある。控え目にステージに寄る人達と一緒に前方に行きながら、なるほどこれが神戸のライブかと実感した。それまで堪えていたけれど『ミッドナイト清純異性交遊』で手を差し伸べた大森さんに耐え切れず身体が勝手に前へ動いてしまったという感じがとても愛おしかった。動いた人達はミッドナイトが終わるとまたざっと元の位置に戻った。戻ることなんてあるのか、とまた驚いた。観客が激しく畝り動くライブもそれはそれで楽しいのだろうが、私は正直まだその世界に飛び込めないでいる。怖いと思ってしまう。今回は周りのお客さんの多くが同郷である(と意識する)ことやお客さんの温度がバンド編成のライブに慣れていない私にしっくり嵌り心地良かったのかもしれない。紳士的だからと言って盛り上がっていないということではない。身体の動きが激しくない分、拍手や歓声に気が込められている感じがした。


私の記憶する限り、大森さんは『絶対彼女』のドンドンドンというドラムの伴奏で初めて観客に背を向けてタオルで顔を拭うまで、ライブが始まってから一度も汗を拭わなかった。ライブが進むにつれてライトに照らされた大森さんの顔にじわじわと汗が浮かんでいた。私は今まで何を観てきたのか、こんなに汗を掻いている大森さんを観たのは初めてだった。大森さんは、恵比寿の時と同じ肩にフリル、胸元に黒いボウタイのついた赤いワンピースを着ていた。恵比寿で初めて見た赤いワンピース姿の大森さんは、可愛いという言葉では足りないくらい可愛かった。自分がいつか見た夢からそのまま出てきたような非現実的な光景に眩暈がした。鮮やかな赤色が少し短く切った黒髪と白い肌によく合っていて、漫画に出てくる性別を超越した美しいキャラクターのようだった。私はリキッドルームでは会場の中程で聴いていたため、大森さんが汗を掻いている様子まで気付かなかった。圧倒的に美しい宗教画のような尊さを感じていた。だから神戸で絵画的な美しさの中に人間的な汗を発見した時、見てはいけないものを見たようでドキドキした。恵比寿でストレートだった髪は神戸では少し巻かれていた気がして、それも相まって色気を感じた。手の触れられない二次元的存在だった大森さんが今や自分と同じ世界に住む人間になった気がした。赤いワンピース姿が二度目で最初よりは心の準備ができていたからかもしれない。恵比寿の時の大森さんとは付き合えないが、神戸の大森さんとは頑張ったら付き合ってデートとかできるかもしれないと思わせる何かがあった。などと、考えている自分が相当気持ち悪いと感じるがオタクなので仕方がない。しかし大森さんは汗を拭いてライブを中断させるようなことはせず、顔中を汗でキラキラさせながら「かわいい!」「かわいい!」と何度も私達を見て叫んでいた。汗も拭かず全力で歌い続ける大森さんが一番可愛くて綺麗だ、と私は思っていた。


大森さんは『絶対彼女』の恒例のパート別歌唱の確か「デブ」パートの後、ライザップのCMの真似をした。恵比寿でもされていた。セトリを見る限り、全ての会場でされていたようだ。絶妙なタイミングでライザップの音がバンドで流れたので、アドリブではなく最初から段取りとして決まっていたのだと思われる。ライザップのあのCMのように、太っている姿を表現しようと顔を縮めた大森さんの顔は二重顎になっていて、その表情は美川憲一のモノマネをするコロッケ氏を彷彿とさせる振り切った狂気さえ感じた。そこには恥じらいが微塵もなかった。私は誰が見てもかわいいと言う大森さん以外の大森さんの表情やしぐさもかわいいと思っているのでその二重顎姿もかわいいなと思ったが、「かわいくない」と思った人も中にはいるかもしれない。「かわいくない」と思われる可能性があっても大森さんは笑いに対して手を抜かなかった。私だったらたった一人にでも馬鹿にされて笑われるのが嫌だと手加減してしまうかもしれないが大森さんは真剣だった。

 
笑いを追求している人が私は好きだ。ただ笑いは難しい。何でも捨て身でやれば面白いというわけではなく誰もが纏っている「虚(きょ)」(6/4のLINELIVEでの「化粧をする女の子は虚を塗っているがおじさんは何も塗っていない」という大森さんの発言は考えされられた)の裏側を曝け出して笑いに昇華させるという覚悟が必要だ。それは時に誤解や他者からの嘲りを生むこともあり、恥らいや見栄をぶち破って精神的に裸になることのできる人でないときっと本物の笑いは成立しない。大森さんは『超歌手』の「#女芸人の墓」という章で、森三中の大島さんについて書かれていて、記述によると大島さんは『笑ってはいけない』で裸になられた。テレビで女性が全裸になるには相当な覚悟がいるだろう。見た目が全裸というその事実以上に精神的な裸になる覚悟がいる。

脱ぐのなんか私には簡単だし、いくらでも面白いならいちばん面白いところで裸になりたいんですよ私も。ていうか裸じゃないとこんな本、書けないですよ。

『超歌手』「#女芸人の墓」109頁より

 

笑いを生み出す際、自己と自己を合わせ鏡のように向き合わせることで身を滅ぼすことも起こり得るが、その覚悟ができる人というのは限られている。笑いに真剣な人はみな本気なのだ。本気だから見せることのできる美しさがある。だから、ライザップの真似をして笑いを取る大森さんは震えるほど美しかった。名古屋でどうだったか分からないが、神戸では「(痩せるということは)結局顔なんです」と大森さんは言い、観客にも一緒にライザップするよう求めた。太っているというコンプレックスや自分で嫌だと思っている自分は、表情つまり気持ち次第で意外にやり過ごせるものだよと言われている気がした。「551がある時~ぎゃははは!(一同大笑い)ない時~……(シーンとして悲しそうに落ち込む)」という関西で知らない人はいないであろう「551」のCMみたいだった。だからか会場は盛り上がっていた。大森さんはライザップのCMの面白さを伝えたかったのではなく、きっと人はそれぞれのコンプレックスを自ら誇張したり笑いに昇華させることでその事実を消すことはできなくとも抱えたままの自分とそれなりに向き合えるはずだ、と教えてくれているのだと一緒にライザップをやって初めて気がついた。


『アナログシンコペーション』から最後の『音楽を捨てよ、そして音楽へ』まで、上昇し膨らんだ会場の熱気がラストに向けて濃度を保ったままぐっと収縮していくセトリに恵比寿では圧倒された。MCではないがファンとのやり取りという点でその役割を果たしていた『絶対彼女』やライザップを挟み『アナログシンコペーション』以降の曲は、舞台でいうと第二章に当たるものだったかもしれない。kitixxxgaiaツアーファイナルの記憶からか、『アナログシンコペーション』はライブの最後に演奏される曲という印象だったので、恵比寿で伴奏が始まった時はそうきたかと驚いた。この曲では「人が人を完全に理解することはできないが、それぞれが同じ方角を向きつつ、それぞれの孤独や個性を尊重して先へ進んでいくときっとうまくいく」と歌われていると個人的に解釈している。他者と分かり合うことを押し通すことも諦めることもしない。これから先の人生、何をするにも信念として持ち続けていたい大切な曲だ。大森さんが最近よく言われている「孤独」と「孤立」の話にも通じる。大森さんは今回から曲に合わせて新しい振り付けをされていて、まるで手話のようにひとつひとつの歌詞を視覚的にも観客に伝えようとされていた。「重ねてよアナログシンコペーション」のところでは左腕の端から端まで右手で横にとんとんと刻んでいくような動きをされていた。その動きを見つめていると、なぜか口から人が出ている空也上人像のイメージに繋がり、大森さんの体に小さな人間が入っていくように見えて、あぁ私は今やはり大森さんの体内にいるのだなと勝手ながら感じていた。


個人的な推測なので全く見当外れかもしれないが、ツアーが終わった今改めて考えると、『絶対絶望絶好調』から『絶対少女』までの第一章(と仮に呼ぶならそれまでのセトリ)は大森さんの曲の中でもYoutubeでMVの再生回数が多い曲や知名度が高い曲、つまり多くの人が飛び込んで行き易い曲が意識的に選ばれていた気がした。それが『アナログシンコペーション』を境にしてラストまで大森さん自身のことを歌った曲や大森さんが大森さんの内側にぐっと没入するような曲が続く。第二章の始まりに『アナログシンコペーション』を歌うことそれ自体が、「もし今から歌う曲について君がどう感じようと、私は今ここでこの曲を君に届けたい」という大森さんの意思表明だったのかもしれない。曲を知っていても知らなくても、共感してもしなくても、それぞれが何か感じ取ってこの場で一緒に音楽を作り上げて欲しい。そういう「お願い」だったのかもしれない。考え過ぎかもしれないが。


アナログシンコペーション

焼肉デート

draw(A)drow

流星ヘブン

わたしみ

死神

音楽を捨てよ、音楽へ

 
『アナログシンコペーション』以降のセトリを改めて書き出してみた。ラストの『音楽を捨てよ、音楽へ』以外は厳密ではないがほぼリリース順になっている。『焼肉デート』をライブで最後にいつ聴いたか記憶にない。当分聴いてない気がした。私はこの曲が大好きだ。この曲は「わかってくれない相手」と「相手に分からせることができない自分」への怒りの曲だと理解している。しかも瞬間的な怒りではなく時間が経ってもずるずる自分に纏わりついて消えてくれない怒り。「ラストラブレター100ページかいて 全然伝わらないってわかった」相手への怒り、「運命を明日から変えたいなら 今日と同じように今日こそはじゃなきゃだめだよ」という自分自身への苛立ち。「ラストラブレター100ページ」ってすごいと思う。もうどうにもならないから文字にして、しかも100ページも書いたけどそれは意味がなかった。100枚ではなく100ページだから便箋ではなくノートかもしれない。その100ページの想いが詰まったノートを結局相手に見せたかどうかさえ分からない。書いた後燃やしたかもしれない。書いても書いても行き処のない気持ち。もうそこにはいない相手もしくは取り残された自分に向けて放たれる言葉が一方的な会話のように早口で繰り出され矢のように飛んでいく。私は普段滑舌が悪く話すのが遅いので、『焼肉デート』のような曲を聴くと自分が別人になった錯覚になり快感を覚える。

 
『洗脳』の『焼肉デート』の怒りはバンドの伴奏と共に花火のように打ち上げられている印象だ。『MUTEKI』の『焼肉デート』はsugerbeansさんのピアノ弾き語りに伴奏が絞られることで、大森さんの声や息遣いが際立ち、怒りの中にある無念さや恨みが更に強調されている感じがする。あくまで私のイメージだから聴く人によって感じ方は違うだろうが。ライブでsugerbeansさん伴奏の『焼肉デート』を聴くのは多分今回が初めてだったので、伴奏が鳴り始めた時は「おおおお」と興奮した。今回のライブ演奏では『洗脳』と『MUTEKI』の両方の色味を感じた。私はピアノが全く弾けないのでなぜかと言われるとはっきり答えられないのだが、sugerbeansさんのピアノの旋律が好きだ。繊細で流れるようなのに力強くてバンドの中でも強い存在感がある。

 
『焼肉デート』から『draw(A)drow』の流れが最高だった。この流れは初めてだろうか。『焼肉デート』で見たある女の子の孤独が、『draw(A)drow』で大森さん自身の孤独へとスライドする。客観的な「誰か」から主観へのシフト。言葉にするのが非常に難しいが、怒りの軸を大森さんががしっと掴んで手元に引き寄せたように感じた。『焼肉デート』で掴まれたまま大森さんの中に一緒に踏み込んでいく感じ。「圧倒的な君の哲学は白濁のコンドームで / 護れなかった 自分なんて / 突き刺した順に死ね」という歌詞の「死ね」が今までで一番自分に向かって飛んできた。飛んできたというより、大森さんが護れなかった自分を突き刺して自分も一緒に絶命した感じ。その同じ世界に入り込んでいる感覚が物凄く気持ち良かった。


そこから『流星ヘブン』。スモークなんて焚かれていなかったが、きっと空調の関係でMVのようにステージに霧雨が立ち込めているように見えた。そこへ風が吹き荒れているような音。sugerbeansさんのピアノの音。じわじわと不死鳥のように這い上がっていく一度死んだ私。普段あまりライブでそういうことをしないし恵比寿の時もしなかったが、『流星ヘブン』が始まってなぜか私は大森さんと一緒に歌っていた。ほとんど無意識に一緒に口を動かしていた。それにはっと気づくと周りの人の迷惑になってはいけないと思い声は出さないように口パクで歌った。自分の口を動かして大森さんの歌声が聴こえる状況に、大森さんと合体したような不思議な心地がした。

 
『流星ヘブン』から『わたしみ』の流れも良かった。ステージが暗くなり大森さん一人が照らされていた。合体を経てついに大森さんの部屋の扉が開いて中に呼ばれた感じだった。ピアノの伴奏の間に大森さんは自らピンクのマイクスタンドの角度を水平にして(マイクは手)、T字になるように調節された。T字の上の部分が、冒頭の「声のないふたりの越えられない断絶で猫が死んでる 誰か傷つけて」の「超えられない断絶」を表現しているのだとすぐに分かった。その断絶に腕を乗せて、断絶の向こう側を見つめている大森さん。パントマイムのようだった。猫も見えた。「12時過ぎてしまった 魔法も効かなくなった」で今度はマイクスタンドを地面と垂直にしてそれを少しずつずらしていき、時計の針に見立てていた。マイクスタンドでこんな表現をした人は今までいるのだろうか、と私は震えていた。真っ暗なステージで大森さんの歌声とそのようなパフォーマンスを見ていると、今この世界には大森さんと私しかいない、という感覚になった。恵比寿の時もそれは感じたが、これまで記述してきたように神戸では音がより自分自身に密着して大森さんの体内にいる感じをずっと感じてきたため、いよいよライブの最終ステージに召喚されていると強く感じた。「甦れ」で、完全に生還した。それを他の観客も感じていたとしたら一人ずつが同じ瞬間に大森さんの部屋に呼ばれているということになり、まるでパラレルワールドだ。『わたしみ』の後、それまでずっと起こっていた拍手が起こらなかった。しんと静まって会場が圧倒されていた。そして個々が部屋に入ったまま『死神』が始まる。

 
『死神』について思うことはたくさんあるのだが、神戸で一番印象に残ったことを記しておきたい。大森さんは『死神』の「反旗を翻せ」という歌詞の前に「さあ」と歌詞には出て来ない一言を付け加えた。アドリブだったのか前もって予定されていたのかは分からない。しかしあの「さあ」と言われた瞬間の大森さんは何か決意されたような悟ったような表情で観客側を真っ直ぐ見据えていた。笑ってはいなかった。怒鳴るほど大きな声ではなくそっと空中に放たれたが明瞭だった。私は歌詞にない言葉が突然放たれたことにぞくぞくして、その瞬間の視覚的な記憶や感情があまりにも脳内に強く焼き付きすぎて、大森さんがどこで「さあ」と言われたのかライブ後失念してしまうほどだった。それでもライブで一番印象に残った場面だった。翌日、信頼のおけるOさんが「死神の反旗を翻すところ、昨日はさぁ反旗を翻せだった気がして…」とツイートされていて、あぁそうだったと確信して同時にその時感じたこともじわじわと蘇ってきた。Oさんはいつも細かなところまでよく観て覚えてらっしゃる。それで私は大森さんがどこで言われたか判明して嬉しくなり、改めて「さあ反旗を翻せ」について感じた気持ちをツイートした(昼に判明してから感情を言語化するまで時間がかかり過ぎて夜になった)。その数時間後にJUNE ROCK FESTIVALを終えた大森さんが下記のようにツイートされていて、完全に私信だと受け取った(私信全部勘違い)。

 

私の記憶が正しければCOCOROMツアー初日の恵比寿のリキッドルームの時は「さあ」は付け加えられていなかったはず(だが100%の自信はない)。JUNE ROCK FESTIVALではどうだったのか、いやその前の名古屋や京都ではどうだったのか、それは私が現場に行かなかったので知らない。私より頻繁にライブに行かれて『死神』を聴いている方やCOCOROMを全通された方に確認する機会があればしてみたいとは思うが(他のファンの人と話す時こういうところが興味深いと思っている)、どこが初めてだったのかという事実を突き止めたいわけではない。もし神戸が初めてだったとしたら、否そうでなくても私がその「アレンジ」に気付いたのは神戸が初めてだったので、思い入れのある場所で立ち合えたことにどうしようもない喜びを感じている。

 
「反旗を翻せ」を含む一節には下記の歌詞が描かれている。歌詞未発表のため聴き取りに基づく。書籍『超歌手』で大森さんは歌詞を「書く」ではなく「描く」と表記する方が良いと記述されていたからそうした。

 
死んだように生きてこそ生きられるこの星が弱った時に

反旗を翻せ 世界を殺める僕は死神さ

 
本当は歌詞全てを引用したいところだが、歌詞がまだ公表されていないので辞めておく。大森さんが望んでいるか分からなかったし解釈は一人ずつ違うから歌詞解釈を今まであまり文章にしたことがなかったが、ファンの解釈を読むのが好きだとラジオで言われていたので私なりに感じたことをこの機会に記しておく。でも自分の解釈が正解だと思っているわけではない。


この星(地球?)つまり我々が今存在している世界は「死んだように生きてこそ生きられる」。「死んだように生きる」とはどういうことなのか、これは「自分の中にある意見や意思を他者や外部に理解させることを諦めて生きる」ことだとこれまでの大森さんの発言や歌詞から私は推測した。学校でも社会でも家庭でも、毎日の生活の中で自分の意思を通せない状況が誰にでも必ずある。例え組織や国の上位に立つ者であったとしても、言いたいことが言えなかったことなんてこれまで一度もなかった、という人はきっといないだろう。人には自分の感情を押し殺さないと(死亡させないと)生きられない瞬間があり、その個の瞬間が重なり、誰が望んだわけではないはずなのに我々の周りには「死んだように生きる」ことが「生きられる」最低条件になった星が生まれてしまっていた。それを承知で生を繰り返している我々。でも「死んだように生きる」ことが当たり前の世界は極めて脆弱だ。基盤となる確固たる意思や信念がない。違法建築のように個の欺瞞を塗り重ねて生まれた星はちょっとした拍子にガラガラと崩れ落ちるかもしれない。いつか破滅する。その時何ができるか。誰もが見て見ぬふりをしているこの恐ろしい命題に危機感を持ち、それを音楽で問おうとした歌手は今まで存在しただろうか。私には他に思い当たらない。続ける。


この星が弱った時に 反旗を翻せ 世界を殺める僕は死神だ

 
「反旗を翻せ」は命令形だ。その前の歌詞で描かれている「抱き締めてよ」「愛し合おうよ」のように「反旗を翻そうよ」ではない。誰に向けた命令なのか。その後に「世界を殺める僕は死神だ」と続いているので、反旗を翻して何をするか、それは「世界を殺める」ことだと連想する。「世界を殺める」のはこの曲の主人公「僕」でありそれ以外の他者ではない。僕が僕に向けて「反旗を翻せ」と命令している。大森さんがこの曲でご自身のことを「お前は死神だと言われた」主人公「僕」として描いているとすると、私達の「身代わりになって何度も死んでいたら姿形は化け物」になった大森さんが世界を殺めるところを私は傍観するしかないのだろうか、とやや取り残された気持ちになっていた。


「反旗を翻す」を辞書で調べてみた。「謀反を起こす。反逆する。」「今まで従っていた主君や支配者の命に背き、反逆すること。」なるほど。「今まで従っていた君主や支配者」とは「死んだように生きてこそ生きられることが慣習化した世界」であり、それを黙認する我々自身でもある。どんどん欺瞞で膨らむ世界が崩壊する前に反逆して「殺める」(=終わらせる)。自分を殺してきた世界を今度は自分の手で殺して破壊する。外部に向けた謀反であると同時に自己の内側へ向けた謀反でもある。「(僕を殺してきた)世界を殺すことで生きる」は、「死んだように生きてこそ生きられる」言い換えると「生きている僕を殺してしまう世界で生きる」は「生きる」という点では同じようだが対極の意を持つ。後者が見せかけの「生」を重ねて「死」を形成する一方、前者は「死」を以て間違いなく「生」を奪還しようとしている。なんという壮大な歌詞だろうか。頭が過呼吸になりそうだ。『流星ヘブン』の「天国はそこらじゅうにある でもそこらじゅうで爆破する」に似ているのだろうかとふと考えたが、それは『死神』の歌詞全貌が明らかになってから再度考察してみたい。

 
こんな歌詞を描く大森さんは一体何者だろうか。SF小説だと未来から来た地球外生命体が狂ってしまったこの星を忠告してくれている、と想定することはできる。でも大森さんは私達と同じ人間だ。海老と最中が好きなかわいい人だ。知らない宇宙人の預言なら「勝手に終わらせてくれよ」と思うかもしれないが、大森さんが一人で終わらせると思うと苦しくなる。「僕はボロボロで構わない」と言われて「あぁそうですか」と思えない。「見た目とか体裁とかどうでもいいって言って抱き締め」ることはできる。全力で。でもこちらは何もしないまま傷だらけの大森さんを抱き締めるだけでいいのだろうか。私も一緒に闘いたい。でもこの曲ではそれが認められているのか、それとも僕は「死神」として一人で戦うから見守っていてほしいと言われているのか答えが出せないでいた。そもそも私には大森さんと同じだけの覚悟があるのか。


この節だけではなく『死神』の曲全体を通しても、そう感じていた。いや一曲の話ではなく、COCOROM恵比寿を終えた時点で私はなぜか大森さんに置いて行かれてしまったような寂しさを感じていた。初めてのリキッドルーム、久しぶりのバンド編成。過去の曲が中心だったからこそ研ぎ澄まされた新ガイアズのバンド演奏とそれに乗る大森さんの歌声。ハコが良いと聞いていたリキッドルームで音が驚くほど心地よく耳に響いてきて、バンドのアレンジも今までで一番良いいなと感じた。ステージもよく見えた。空調も良かった。完成されていた。それに戸惑った。私の知らない間に私の知っているバンド編成からずっと先に行ってしまったような気がした。更に大森さんは特に後半、歌いながら今まで見たことのない表情をされている時があった。『マジックミラー』のところで少し書いた通り、笑ってファンと目を合わす時とは違う意識をぎゅっと凝固させたような眼差し。怒っているようでも悲しそうでもなく、大森さん自身と対峙しているかのような顔。描写するのが難しいが何に近いかと問われると猫のようだった。道で出会った猫。簡単に踏み入ってはいけない孤独を見た。あれ、全然追いつけていないと感じた。そんなことを感じる一方で、果たして私は大森さんのバンド編成の一体何を知っていると言えるのだろうか、大森さんが私に届けたいことの何を分かっているのだろうか、まだ何も知らないと自問した。結局は自分が自分の抱える問題から抜けられず同じラインに立てていないだけなのかもしれなかった。神戸でその寂しさを奪回できるのか、それともまた同じように感じるのだろうかと緊張していた。だからあの時「さあ」と言った大森さんを目撃した瞬間、大森さんが解けた靴紐を結ぼうと蹲っていた私のところまで戻って来て手を差し出してくれたような気持ちになった。一人称だと思っていた曲は二人称になった。なったというより元からそうだったことを教えてもらって初めて気づいた。

 
いずれにせよツアーファイナル翌日のJUNE ROCK FESTIVALを終えた直後に改めて言葉にしてツイートされたということは、大森さんの中では重要で、意味のあることだったのだろうと捉えた。意味のないことなんて一つもないが、大森さんが全く何も考えずに42万人のフォロアーに伝えたとは考えにくい。だから私は一人で勝手に色々と考えていた自分が間違っていなかったと報われた気になった。勘違いでもいい。

 
『死神』でようやく大森さんと一緒に立って闘える自信を得た私は『音楽を捨てよ、そして音楽へ』を今までで一番清々しい気持ちで迎えた。大森さんと新ガイアズのメンバーと、音楽が存在する意味やここで今音楽を聴く意味を確かめ合った。「抽象的なミュージックとめて」で音楽が止まった時、恵比寿の時より元々近距離に見えていた青柳さんの魔法陣がより自分に近づくように感じ、私は身体ごとアーチ状の柱を飛び越え魔法陣の中に入っていく感覚があった。大森さんの体内にいて、更に魔法陣の中に入っていく。そこには何があるのか。分からないが一緒に闘う世界が待っていたのかもれない。

 
「あぁ終わった」とぼんやりしているとアンコールが鳴り、まもなく大森さんとメンバーが順に登場された。MCが始まり現実世界に引き戻された感じになった。今や自分のいる場所は大森さんの体内ではなく地下のライブ会場だとはっきり認識した。MCはいつもと変わらず楽しくて笑いも起きていた。大森さんは部屋を片付ける際、片付ける機能に特化した家具よりデザインが可愛い気分の上がる家具の方がどこに何を入れるか考えたりして苦手な「片付け」が大森さんの好きな「創造」になるからモチベーションが上がるという話をされた。その後で「ずっと生きてきたら良いことがあるかもしれない、とか無責任なことは言わない。でも自分で自分に慣れてくるんです」と言われた。自分の苦手と感じることや嫌なことが急になくなって万事快調になることはないが、長く生きていると自分で自分を理解して苦手も扱えるようになる、と片付けの話と結び付けて言われているのだと解釈した。それはライザップで感じたことと同じだったから大森さんが今回のツアーで私達に伝えたかったことなのかもしれないと感じた。

 
アンコールでやってほしい曲を観客に一斉にコールするよう大森さんは呼び掛けた。これは名古屋でもあったとライブ前に知人から聞いていた。私は無意識に『あまい』と叫んだ。名古屋では何と聞こえたか二宮さんに聞いて『お茶碗』をやる流れだったそうで、神戸では美マネに聞いて美マネも『お茶碗』と言った。今から『お茶碗』やるのか、と構えたら大森さんは「えー」とあまりやりたくなさそうな反応をされた。美マネさんがモナ・リザに似ている話をした後、「私が歌っていたらみんながわーっと入ってくるような曲がやりたいなぁ」と大森さんはヒントのように言った。「これはもしかして…」と期待した。それでもう一回一斉に叫んだ。何と聞こえたか今度はえらさんに聞いた。えらさんは少し間を置いた後、小さな声で『あまい』と放った。その三文字が発語された瞬間のえらさんの表情と声の可愛さと言ったら!他のことを忘れそうになるくらい破壊力が凄まじかった。大森さんは可愛いえらさんに大喜びで、私もえらさんみたいにタイトルコールしたいと言われた。喜んでいる大森さんと照れているえらさんと更にそれを暖かな眼差しで見つめる他のメンバーがみんな可愛くてにやにやした。ここまでの展開があまりにも甘美なので予定調和に思えるかもしれないが、演奏前にピエールさんがサクライさんにどこで入るか等真剣な顔で相談されて大森さんがそれに笑っていたので、普通にこの時決まったのだと私は感じた。

 
大森さんがえらさん風にタイトルコール(これもまた破壊力が凄かった)して始まった『あまい』からの『TOKYO BLACK HOLE』がとても良かった。大森さんが言った通り、『あまい』は歌っている途中でバンドが入り、その入り方はこれまで何度か観たことがあったが今この場聴くと、音楽とは歌い手がいてバンドがいて聴き手がいてそれらが息を重ねるように成り立つものだ、と実感できて気持ち良かった。そして最後の『TOKYO BLACK HOLE』。出発だった。今日この場で大森さんの身体に入り、大森さんやバンドメンバーと共に生きたり死んだりを繰り返していた私は、この数時間の体験を経て今度は次の場所へ向けて歩み出した。大森さんの叫ぶ「綺麗だ」は今日観た自分の光景全てに告げられているようだった。COCOROMは大森さんの身体に呼ばれて一緒に生きたり死んだりしながら、大森さんと音楽の意味を確かめ合って足並みを揃えるためのツアーだったのだなとこの時ようやく感じた。それを思い入れのある場所で成し遂げられたことをツアーから一週間経った今も強く噛みしめている。次のツアーでは何が待っているのか。きっと大森さんのことだからとんでもない光景が待ち受けていると信じている。それまで私は今回揃えた足並みを遅らせないよう、いつもの通り溺れそうになりつつ自主練しておきたいと思っている。

 

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完結したと思っていたCOCOROMツアーだったが、6月22日のLINE LIVE「ミッドナイト清純異性交遊ラジオ~疾風怒濤編」を観てこれがCOCOROM最終章だったと驚愕した。この日はスタジオバンドライブ生配信で、ツアーと同じ新ガイアズによる演奏だった。配信だと忘れてしまうほど臨場感があるライブだった。これが無料で観られるとは何とも贅沢だ。ライブの時には見えない大森さんの足元や新ガイアズの所作を画面越しに堪能することができた。歌い方もライブと違うところがあった。『死神』が始まってドキドキした。あれを言われるのかどうか。大森さんは「この星が弱った時に」の後、他の歌詞よりも大きな声で「さあ!!」と叫んだ。はっきりと力強かった。嬉しかった。私信だった(勘違い)。これにて私のCOCOROMは完結した。ありがとうございました。