(続)海の音

雑念のメモ

嗚呼、プリント倶楽部

プリクラが「プリント倶楽部」の略だということを今の若い子のうち何人が知っているだろうか。

先日、十年以上ぶりにプリクラを撮った。友達の親子と息子と一緒に。その時の嬉々とした気持ちは日記に書き留めたが、プリクラについて異様なほど思いが溢れてきたため、私のプリクラ回顧録とともにここに書き記すことにした。

プリクラ、プリント倶楽部はそもそもいつ生まれ、誰が考えたのだろうか。歴史的なことはググれば出てくるかもしれない。記憶している限り、私の周りでは小学校中学年くらいで初めて登場した。プリクラ帳(実家にあるか、おそらく家族に勝手に捨てられてしまっている)の一番最初に貼られていたおそらく私が初めて撮ったプリクラは個別にめくれる、角の少し丸い小さい長方形のシールが16枚から20枚程度並んで印刷されているものだった。一回の撮影で撮れるバリエーションはひとつか二つ。証明写真のような仕組みで、後ろに色のついた幕があった。画面上には意匠がよくわからない装飾的な草花や端にキャラクターがいる簡易的なフレームだった。

そのキャラクターは今でもはっきり覚えている。角が二本生えたような紫色の帽子を被ったピエロ(道化)だった。おそらくメーカーが考えたキャラクターだろうが、なぜピエロなのかいつも不思議だった。動物や女の子に比べて普段親しみのない、やや不気味なピエロが自分の人生に新たに登場したプリクラという概念を特別なものにしていた。幕の前に立ってお金を入れると、いきなり「プリント倶楽部~!」と(多分)ピエロの陽気な声がした。異界への誘いである。クラブではなく倶楽部と漢字で表記されている点も、秘密結社に潜入するような気持ちになるから、個人的には重要だった。

登場時はおそらく複数人数で撮るという概念がなかったので、一人で台に立ち真顔でじっと目の前の画面を見つめていた。証明写真を撮る時と同じような感じ。人生で一番最初に撮ったプリクラは自分が一体どこを向いたらいいのかわからず戸惑っている間に撮影終了、という表情だった。フレームに重なって顔が一部隠れている。良い画像を選ぶ権利はこちらになく一発撮りのような感じだった。その何とも言い難い真顔の自分が印刷されたシールを印刷口から受け取った時、他にはないような嬉しさがこみ上げたのを今でも覚えている。

お金を入れて完成するまで証明写真の仕組みと似ているが、プリクラが証明写真と決定的に違うのは、特に使用が求められる用途がないのに自ら進んで撮影台に行き、わざわざ自分の顔と向き合っていることだった。特に何かに使うための写真でないから真顔でもいいし、笑っていても変顔をしてもいい。自分の望む自分をさらけ出すことができる。思い当たるとすれば、家で一人で鏡を見ている時間に似ている。ピエロを通じて異界に入り、自分のまだ知らない自分に出会って快感を覚える、これが私にとってのプリクラだった。もはやエンターテイメントを超えた儀式、もっと言えば自慰行為であった。

プリクラは流行に伴い数年のうちにどんどん進化を遂げ、顔出しパネル的なフレームや最初から写真が組み込まれあたかも芸能人と並んで写っているかのように撮れるフレームもあった。安室奈美恵のプリクラを撮ったのをよく覚えている。黒いタートルネックを着た茶髪の安室ちゃんと芋臭いトレーナーを着た小学生の自分が並んでいる写真は異様だったが田舎にいながらにして有名人に接したような謎の興奮を覚えた。安室ちゃんの写真と自分の写真の画質が違うのが異次元と結ばれている感じがした。ピンプリ、と今は呼ぶのか一人撮影が基本だったが次第に複数人数での撮影を前提にしたものが多くなっていった気がする。

撮ったプリクラが溜まってくるとそれらを手元に置いておいても仕方ないので最初はきょうだいや親戚と、次に学校や塾の友達と交換するようになった。プリクラ帳(プリ帳)と言われるプリクラを貼るためだけのノートがファンシーショップに売り出され始め、空白を埋めるように順番にきれいに貼っていった。自分やきょうだいや友達の一人写真、自分と友達の写真、知っている友達と自分のまったく知らない誰か(友達の友達)が並んでいる写真、それらが並んでいる光景は今から考えたらなかなかシュールだった。それぞれから飛び出した自意識が交わることなく並んでいた。

中学生になると、放課後友達とプリクラが置いてあるジャスコやサティまでよく撮りに行った。首から上だけ写る証明写真のようなスタイルは次第に廃止され、箱のサイズは大きくなり全身が撮れるプリクラ機が取って代わるようになった。そしていつの間にかあの帽子を被ったピエロは姿を消した。

中学の終わりか高校生くらいになると、今のプリクラ機と変わらない、ラクガキのできるものが登場した。最初のペンのあまりにも書きにくかったこと。画面とペンの接触が悪く、やきもきしているうちに制限時間がきてしまうのはよくあることだった。ペンどころか、指で書くのもあった気がする。撮る時は片手を斜め前方に伸ばして掌を広げて見せる当時のギャルポーズ。あのポーズはなんだったのだろうか。あとはプリクラ機のビニール幕に印刷されているモデルに憧れたりした。

休日に学校の誰かと遊びに行くとプリクラを撮るのはお決まりだったし、平日も放課後や塾に行く前に制服で撮った。教室ではそんなに仲良くないけど一方的にかわいいなと思っていた子がいた。私はその子と同じ進学塾に通っていた。その女の子と何かをきっかけに塾がある日限定で仲良くなり、一緒に塾までの時間をつぶすことが多かった。学校を出てから、「プリクラ撮ろうよ」と急に言われた時のドキドキを今でも覚えている。教室ではグループが違うのであまり話さなかったその子と本当は話したかったし関わりたかった。だから嬉しかった。そういう意味で「プリクラ撮ろうよ」は私にとって「友達になろう」より強い言葉だった。「私の顔=自意識、見せてあげるよ」と言われている感じ。そういう特別なプリクラを他の子に見せたりあげると「この子とプリクラを撮る仲なのか」とライバルに嫉妬されないか余計な心配をしてできれば隠しておきたかった。

恋愛からほど遠い学生生活を送ってきたし男友達もいなかったので、残念ながら私には異性と二人でプリクラを撮った経験は一度もない。ないが憧れだった。同じ学校に彼氏のいるヒエラルキー高めの女の子が昨日一緒にプリクラ撮ったよと別の友達に話しているのを漏れ聞いて、ああいいなと羨ましかった。異性だろうが同性だろうが好きな者同士の二人がプリクラを撮るのはセックスと同等の行為だと今でも思っている。だって二人で同じ空間に入って同じカメラを向いて、撮影される0.何秒間を共有するって、あまりにもぞくぞくする。私はもう若くないが、この先本当に好きな人に出会ってその相手が一緒にプリクラを撮ってくれるとしたらきっと嬉しい。でも第一にもう高校生でないから恥ずかしいし、このプリクラへの捻じれた想いを一言で相手に説明するのは容易ではないからあえて言わないかもしれない。

先日、友達のおかげで十何年ぶりにプリクラを撮ることができた。その友達がいなければあの機械へ入る勇気がなかったので感謝している。撮影してみてわかったのは、最近は数年前からネットでよく見かける、目が大きくなったり美肌美脚になったり「盛れる」プリクラの流行が一旦落ち着き、できる限りナチュラルに(しかし素のままではなくほんの少しだけ盛れて)撮れるものが主流のようだ。「盛れる」のを売りとしたプリクラ機はわりと空いていた。私は撮ること自体が目的でどんな風な撮れ方でもよかったので空いていた機械で撮ったら目がキラキラになって友達と大笑いした。若い子はナチュラルを謳う機械に多く並んでいた。

SNSにあげる若い子が多いから撮ったデータはスマホに転送できる。盛れすぎたプリクラは実像から遠ざかっているからプリクラを自画像として掲げるのは反則あるいは虚像だと承知の上での認識なのかもしれない。データ化やプリクラ画像をめぐる概念は、私の若い頃からは想像もできなかった。時代に合わせてプリクラは生き残るために進化して、それに伴う文化や考え方もどんどん変化している。

それでも「自分の顔や姿を閉じられた空間に身体を預けて撮る」という根本的な仕組みは昔と何も変わってない気がする。一人で撮ろうが誰かと撮ろうが、あの機械音声に煽られて表情やポーズを作る撮影の瞬間、誰もが自己と向き合って今まで出会ったことのない新しい自分をさらけ出す。ラクガキしながら、自分にはこんな顔があるのかと気づく。印刷口から出て来たプリクラを見て、現在進行形で生まれた新しい自分に出会う。居酒屋の暖簾をくぐるようにビニールの幕をめくって箱の中に入って撮影し、異世界から出てクールダウンしつつ完成を待つという一連の行為がもたらす自慰後のような爽快感はあのピエロのプリント倶楽部時代から今もずっと継承されているのではないか。私は少なくともそう思っている。自撮りやカメラ撮影とはまるで違う。もっと閉鎖的かつ他動的で、自分の力ではない何かの力に突き動かされている感じ。

プリクラが日本特有の文化なのかよく知らないが、他には代えがたい特殊な文化が進化しつつも消滅することなく存続して、己と向き合う興奮を若者やかつて若者だった人たちに与え続けてくれたら嬉しいなとひそかに願っている。

三十路の回顧的一人ごとおわり。