(続)海の音

雑念のメモ

はじめて大森靖子さんに出会ったときのこと

初めて大森さんのことを知ったのは2014年の春。今もだが、その頃の私は今よりもずっと音楽に疎かった。山口百恵ビートルズを好んで聴いていたが、歌番組で聴いたり有線から耳にする曲をなんとなく知っているくらい。音楽のことが何もわからなかった。過去ではなく今、歌っている人で好きな歌手は特にいなかった。ある時、そういえば中学の時に流行っていたモーニング娘。って今も活動してるのだろうか、とネットで検索したことをきっかけにモーニング娘。を好きになった。6畳ワンルームの部屋で、暗くなるまでMVやライブ映像を漁るように観続けた。

好きが止まらずモーニング娘。’14の話を職場で仲の良い先輩によくしていたら、「大森靖子さんって知ってる?道重さんのことが好きな人なんだけど」と先輩は二枚のアルバムを貸してくれた。それから、「MVにユイちゃん(橋本愛)が出てるから観てみて」と付け加えた。その少し前、わたしたちは朝ドラ『あまちゃん』に熱中していた。今から考えれば運命的というのだろうか。私がモーニング娘。を好きになっていなかったら、大森さんが道重さんを好きでなかったら、橋本さんがMVに出ていなかったら、私は借りたCDをそのままにしていたかもしれない。

大森さんの音源を初めて聴いた時の第一印象は、わからない、だ。でもそれは自分にとって良いことだった。人でも物でも昔から分かり易いものより、分かりにくいと感じるものに惹かれる。分かろうと近づく過程が好きだ。大森さんの音楽が分かりにくいというわけではなく、私が音楽に疎いというそれだけだったのかもしれない。先輩に借りた『魔法が使えないなら死にたい』と『絶対少女』に入っている曲は他の何とも比べることができない、今まで聴いたことのない音楽だった。キティちゃんの白いところ 6Bで塗りつぶす…?ディスったやつの家にバラの花束を毎日送る…??それは一体どういうこと…?頭の中は疑問符だらけだった。でも繰り返し聴いているうちに、皮膚を細い針で突き刺さされ、何かが身体の奥深くに入り込んでいくような感覚を覚えた。単純にこの人のことをもっと知りたいと思った。恋の予感みたいだった。ドキドキした。特に『音楽を捨てよ、そして音楽へ』を聴いた時、これこそ私がずっと聴きたかった曲に違いないと震えた。これまでの人生で音楽に近づくことができなかった私は、この曲を聴いて初めて歌とは何か、音楽とは何か考えた。

ライブなんて怖い場所だと決めつけていた私が現場に行くまで、それから2年も要した。2016年3月。『TOKYO BLACK HOLE』が発売され、買って聴いているうちに、どうしても生の音が聴いてみたくなった。ツイッターをやっていなかったので情報を得る手段が公式サイトしかなかった(と思っていた)。会社の昼休みに大森さんの公式サイトを見ると、無料のリリースイベントがあることを知った。ライブハウスは怖いけどCDショップでやる無料のイベントであれば勇気を出せば行けるかもしれない。リリースイベントのことはモーニング娘。を追っているとそういうイベントの存在をなんとなく知っていたが、行ったことは一度もなかった。知ったのが遅く、『TOKYO BLACK HOLE』発売記念のリリイベはほとんど終わっていた。でもよくみるとなんと明日、池袋で最後のリリイベがあるらしい。まだ間に合う。行かなかったらきっと後悔する。

翌日、2016年3月30日。退社後、ドキドキしながら池袋へ向かった。息子が生まれてから夜外出するのは初めてだった。イベント前にHMVが入っているEsoraの一階でホットドックを食べたが緊張でほとんど喉を通らなかった。何時に行くのがベストなのか要領を得なかったので、開始時間の1時間ほど前にお店に着くと、既にイベントに参加するであろう人がちらほら集まっていた。まだ始まるまで時間があるなぁと思ってぼんやり突っ立っていたら、店の奥に設置されたステージに大森さんが現れた。大森さんは黒地にピンクと白が配色されたワンピースを着ていて、ステージの後ろに立てられたHMVのロゴが並んだパネルの色と合わせたのかと思うほどみごとに調和していた。自分が思っていたよりもずっと鮮やかなピンク色の髪。色白で驚くほど小さい顔に見とれる。突然の登場に混乱していたら、大森さんはギターをかき鳴らし歌い始めた。揺れるピンク色の髪。力強く弦を弾く白い指。美しかった。数曲弾き語りで歌われた大森さんはまたその場から立ち去った。リハーサルだったことを後から知り驚いた。ともさかりえの『カプチーノ』など8曲ほどカバーで歌われていた気がする。

時間が近づくにつれ、人がどんどん集まってきた。開始直前、券を持っている人は前方の優先エリアに通されていた。券を持っていない私は優先エリアの後ろの無料エリアの一番前に立っていた。目の前の優先エリア最後尾に黄色い服を着た背の高いイケメンが立っていた。この人は私よりずっと大森さんのことを知っているんだろうな、などと考えていたらまもなく大森さんが登場され、いきなり歌い始めた。一番最初は一番聴きたかった『TOKYO BLACK HOLE』だった。あの伴奏を聴いた瞬間の体内中の血がいっせいに駆け巡るような高揚を忘れない。ギターの音が強く身体に響いてきた。それから歌声が矢のように自分に向かって真っすぐ飛んできた。身体の奥がえぐられていく。えぐられてかき回されてドロドロになった自分の内臓が口から飛び出すような感じがあった。

1時間ほどでリリイベは終了した。無料だしニ三曲聴けたら嬉しいなと思っていたので、今から考えると有料のライブかと思うほど曲数も多く、MCもたっぷりで濃いイベントだった(iphoneに残してあるセトリメモを見たらなんと13曲も歌っていた)。内臓が飛び出して空っぽの胴体を抱えたまま、放心状態で店を出た。帰りの電車に揺られながら大森さんは歌に対してすごく真剣な方なんだなと考えた。好きな歌手の歌を生で聴いたという、生きてきてほぼ初めての経験に興奮がおさまらず、家に帰ってからも歌詞や歌声、目に焼きついた髪の鮮やかなピンク色について何時間も思い返していた。そして真夜中、ファンクラブに入会した。誰かのファンクラブに入るのも生まれて初めてだった。

あれから三年。今もずっとドキドキしている。人が何かに新しく出会う時、それはただの偶然かもしれないし巡り合わせかもしれない。それぞれに誰にも介入できない物語があり、人生はそれを積み重ねながらうねるように進んでいく、と最近よく感じる。毎年この時期、あの日あの場所で聴いた『コーヒータイム』を思い出す。春はまたくる。