(続)海の音

雑念のメモ

勝手に夏の作文 小中高時代の思い出

大森靖子さんの書く文章が好きだ。「NHK Eテレ作文『私の中高時代』(充電)」というコメントと共に大森さんの中高時代に関して書かれた文章のスクリーンショットが8月22日の夜、ツイッターに投稿された。

 

 この大森さんの文章はEテレハートネットTV」の公式サイト「#8月31日の夜に。」という番組サイト内にある「2018年夏休み ぼくの日記帳」に掲載されている。

http://www.nhk.or.jp/heart-net/831yoru/diary/diary000329.html

「2018年夏休み ぼくの日記帳」では主に一般の方々から夏休みに関するエピソードを募集し、それを来たる8月31日の夜に紹介していくという番組構成になっているらしい(そうだと気づくのに時間がかかった)。一般投稿された文章と並んで、著名人の方の文章も投稿されていて読めるようになっている。現時点では大森さんの他に詩人の最果タヒさん、中川翔子さん、ヒャダインさんらの文章が掲載されている。今後もっと色々な方の投稿が増えていくのかもしれない。大森さん以外まだ読めていないので一般の方の投稿も含めて順に読んでいきたい。大森さんは「ハートネットTV」に過去何度かご出演されており、出演された過去二回の放送が近々再放送されるらしい。2014年12月1日に放送された「ブレイクスルー」に私は感銘を受けたのでこちらもいつか再放送されたら嬉しいなと思っている。放送内容を文字起こししたページが残念ながらリンク切れになっていた。大森さんのインタビューはまだ読める。この番組は素晴らしく、書きたいことがたくさんあるのだが長くなるのでそれはまた改めてにする。

http://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/2800/204249.html

 

話を大森さんの文章に戻すと、私はこれを読み激しく共感した。共感というか、自分のことなのだろうかと胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。私はもう大人で夏休みの宿題なんてないが、ないからこそ私も「私の中高時代」にまつわる作文を書いてみようと思った。大森さんが「作文」と言われるように、日記というよりは作文だ。別に読む人はいないかもしれない。ただ、蓋をして封印しておいた部分がぎちぎち締め付けられところてん式に押し出されるものがあったので夏の課題というありもしない名目でここに吐き出しておきたい。中高時代というタイトルだが、私も大森さんと同じく中高はお弁当だったので私も最初に小学校の給食の話を書くことにする。

 

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私の小学生時代の思い出のほとんどが給食と修学旅行で構成されている。どちらも苦痛しかない。最初は出された給食ほぼ全て、学年が上がっても小魚や野菜やチーズやはちみつ…どうしても受け入れられないものが必ずひとつはあった。給食を完食しない児童は重罪人のように扱われ、おかわりをする児童は「何でもよく食べる良い子」と担任を喜ばせた。私は毎日重罪人だった。重罪人は見せしめのように教室に取り残され、食べ終わるまで決してズルをしないよう看守(=担任)に監視され続けた。給食の時間が終わり後片付けも済むと、四つだか六つだか班形式に集まっていた机も元の位置に戻り、掃除の時間が始まる。机ごと透明人間になったかのように私の周りでお構いなしに箒が掃かれ埃が舞う。遠くに看守がいる。看守は掃除を見ているようで掃除のどさくさに紛れて私が誤魔化さないか鬼の形相で見張っている。砂埃の舞う中、お皿に載ったトマトを見つめる。でもやはり食べられず、掃除も終わり昼休みになり教室には誰もいなくなる。看守は「ちゃんと食べなさいね」とイライラ言い放って何でこの子は一体いつまでこうしているのだろう私は職員室に帰って次の授業の準備をしなきゃいけないし採点だってしなきゃいけないのにという顔をする。結局重圧に負けて、というか次の授業が始まるからと強制的に飲み込ませられる。かといって吐き出せる場所もなく口中に嫌な味がいっぱいに広がって嗚咽して涙が溢れてくる。担任の「ほら食べられた」という見当違いの言葉と勝ち誇った顔。あの時の世界からはじき出されたような屈辱と何が悪いのか何一つも理解できない悔しさは今でも忘れられない。

ほとんど友達のいなかった私にAくんという仲の良い男の子がいた。転校生でたまたま家が近くだった。いつも面白くて小学生とは思えない物の考え方をしていたAくん。Aくんと私がいつも面白い日記を書いてくるからといつだったかクラスで選ばれた二三作品が藁半紙に印刷して配られ、本人が読み上げる時間があり、Aくんと私がよく交互で指名されて読まされた。でもAくんの作文の方が圧倒的文才があり面白かった。私は当時はまっていたさくらももこのエッセイの影響をもろ受けたというか文体を真似ただけであった。でもAくんを勝手にライバル視していた。ライバルであると同時にAくんを尊敬していた。彼だけは私と分かり合えるというような気がしていた。相手は別に何も思っていなかったかもしれないが。私と彼の共通点はトマトが嫌いなことだった。

ある日、給食にトマトが出た。薄切りではなく、でかい1/4くらいある皮つきのトマトが「小のおかず」(副菜)として味付けも何もなくそのまま皿の中に転がっていた。トマト味ならまだしもこれはどうしても無理だと思った。Aくんの方を見ると私と同じ苦痛に満ちた顔をしていた。やがていつものように掃除が始まった。Aくんは看守が一瞬目を離した隙に残していたコッペパンの中身をほじくって食べてから、「これ(トマト)をこっそりパンの中に詰めたらいい」と記憶では声ではなくそのようなしぐさで私に教えてくれた。今から考えればそれもおかしいが、パンであれば満腹を申請すれば自宅への持ち帰りが許されていた。なんと勇敢な行動なのだろうか。そのアイデアと勇気に私は脱帽した。しかしクソがつくほど真面目で臆病だった私には難易度が高すぎて、真似することができなかった。しばらくしてAくんが「せんせいたべましたー!」と明るく看守に伝えた。給食居残り組は食べ終えたら必ず報告する義務があり、看守の審査を通過しなければ食べ終えたと見なされなかった。近づいてくる看守。ドキドキ。私は目の前の給食を放置し、自分のことのように見守った。結果は子どものやることだったのでツメが甘かったのか、Aくんのカラクリは看守を欺くことはできずいとも簡単にバレた。締め上げられるAくん。その時の担任が怒り狂った様子は今ここで形容できないほど怖かった。Aくんは泣いた。Aくんが泣くところを私はその時初めて見た。Aくんは泣きながら死ぬほど不味そうなトマト入りコッペパンを食べさせられていた。いつも明るくひょうきんなAくんが泣きながら口の中をトマトでいっぱいにしている姿を傍観するクラスメイト達。拷問だった。その後自分がトマトをどうしたかは覚えていない。

だから学校が嫌いだった。給食を食べるか食べないかに異様なほど固執し、食べられない子を重罪人として晒し上げ、給食の完食というそのひとつの部分で児童の善し悪しを判断しようとするのが許せなかった。他には授業中に挙手しない児童も漏れなく重罪人になった。私はそこでも重罪人の烙印を押された。確かに好き嫌いなく食べることや皆の前で意見が言えることは大事かもしれない。でももっと大事なこと、目を向けなければいけないことはたくさんあるしその基準は個々で違うのではないか。どうしても納得がいかなかった。今の小学校は給食や挙手に対してどんな感じか知らないがあの時代は確かに制度への異様な固執があった。それは厳しさとは違った。あんなに面白くて才能があるAくんを、トマトのひとつぐらいでそれまで彼がしてきたこと全て、彼自身の存在を全否定するような教師のやり方はあまりも非人間的で残酷に思えた。そしてAくんがその体制に反逆しようとしたその勇気さえも打ち砕かれたのが私は悔しかった。

中学生になると更に学校が嫌いになった。受験して私立中学に進学する子達を横目に何も考えずに近隣の公立中学に進学したら小学校以上に制度に固執する気の狂った学校だった。地獄。狂っていた理由として、風紀が乱れていたからと大人達は口を揃えて言っていたがそれも納得できなかった。界隈で最も酷く、その中学校の長い歴史で見ても最大に荒れていたと言われていた私達がいた時代の中学は学年の2/3くらいが「不良」(その表現自体疑わしいが当時大人達がそう呼んでいたのでここではあえてそう呼ぶ)と呼ばれる生徒で構成されていた。不良が標的を見つけて公開イジメをしたり、物が盗まれるのは日常茶飯事、教師は精神を病んですぐいなくなるので常に二人担任体制、シンナーの吸い過ぎか何か知らないが腕にたくさんの痣をつけて猿のように暴れる目の落ち窪んだ生徒達を制圧しなくてはならないため、授業は毎日ほぼ自習の時間だった。嫌気がさして登校拒否していた子も多かった。でも私は休まなかった。別に学校が好きで来たいというわけでもなかったがこんな奴らのために休んで「あいつも漏れなく負けた」と思われるのが馬鹿らしいと思った。盗みたければ盗めばいいと思って不良達の好むディズニーではなくサンリオの中でもマイナーなコッコちゃんというキャラクターがついた小学生でも持たないようなださい筆箱を試しに持ち歩いたら誰にも盗まれなかった。毎日ブスだブスだと男子に常に笑われた。「おまえはハミってるよな」とその一言だけわざわざ丁寧に伝えに来た別のクラスの男子生徒もいた。勝手に言ってろと思った。毅然としていたからかまだ平和だったのか、陰口はあっても暴力を振るわれたり集団リンチされるようなことはなく、たまに軽蔑心半分、好奇心半分で勝手なあだ名を付けて私に寄ってくる目つきのヤバい女子もいて好きではないが嫌いにはなれなかった。

馬鹿な奴らは放っておけばいいとしても、教師まで最悪だった。不良があまりにも手に負えられない脅威だからか教師の矛先はそれ以外の残された生徒達に向いた。私も普通にしていただけなのに何度叱られたか分からない。運動部にいて髪が地毛で今よりもずっと茶色かったので「染めてないか」と何度地毛だと説明しても問いただされた。それから髪を耳より少し高い位置でツインテールにしたら即刻辞めろと叱られた。「なぜダメなのですか」と聞くと「人の顔に当たったら危険だ」と言われた。おいおい危険な奴はもっと他にいるだろう、ツインテールを振りかざして暴れる自分を想像して笑った。

あのトマト事件で重罪人に祀り上げられたAくんも同じ中学だった。でも学校がそんな感じだったのとお互いに思春期を迎えたことで小学生の時のようにあまり口を利かなくなった。でも姿は見かけた。Aくんも私のように毎日ちゃんと登校しているようだった。ある昼休みの時間だった。昼休みは全員必ずグラウンドに出なければいけないという変な決まりがあり、私は出たくなかったので一人で教室にいた。そしたら見回りの体育教師が来てこっぴどく叱られた。ごまかしても何度も来て煩かったので仕方なく外に出た。その少し後噂で聞いた。別のクラスのAくんも昼休みにグラウンドに出なかった。そしたら私を叱った同じ教師がAくんを責めたのでAくんは「なぜ必ず外に出なくてはならないか、正当な理由を説明してください」と教師に問いただした。したところ教師は何も言えず引き下がったらしい。その後、Aくんは卒業まで何をどう頑張っても体育の内申点をあり得ない点数まで故意的に下げられ続けた。何一つ間違ったことはしていないのに。私は権力に負けて自分がいたかった場所を諦めたがAくんは信念を捨てなかった。かっこいいと思ったし同じことをできなかった自分が悔しかった。Aくんは他にも度々教師に真っ当なやり方で反発し、その度に押さえつけられていた。苦しかった。こんな学校消えればいいと思った。

私とAくんは申し合わせた分けではないが同じ進学校の高校を選んだ。宿題が地獄のように多くテスト勉強が大変だった(チャート式が今でも夢に出てきそう)点を除けば規則は緩く制服はあるが好きな格好や髪型で登校できた。ようやく息ができた。中学時代の不良達とはまた違う進学校特有の頭が良くてかつ器量も良いキラキラした人が多く気の合う友達はあまりいなかったが、私は放課後になると図書館で手塚治虫の漫画を読んだり美術室に籠って誰とも話さず一人黙々とキャンバスに向かって絵を描いた。好きな鞄を持っていても中学の時のように盗まれるようなことはなかった。BAPYの鞄が売っている場所を密かに調べてこっそり買いに行き持っていたら学年一かわいい女子に目をつけられどこで買ったか聞かれてそのかわいさに耐え切れず正直に教えた。次第にヒエラルキー上位グループの女子達がこぞって持ち始めたのでもう持つのを辞めた。クレープやポテトを食べに行ったりカラオケに行く友達はいなかったし、小中学時代からの男性恐怖症をまだひきずっていたせいで男子と上手く話せず恋仲になるような思い出も一度もなかったが油絵具の匂いを身体中に染みこませて帰宅するのが楽しかった。気になる男子あるいは女子がいたら遠くから見つめて勝手に脳内彼氏・彼女にして楽しんでいた。美術部と同じ階にある吹奏楽部で打楽器を叩いていたAくんを時々見かける度に私は顔を歪めてトマトを口に詰め込むAくんを思い出し、Aくんも私もやっと好きなことができてよかったね、と心の中でつぶやいた。終わり。