(続)海の音

雑念のメモ

パリピ越しに花火を見たい - 『7:77』を聴いて勝手に考えたこと

大森靖子さんの新しいアルバム『クソカワPARTY』の7番目に収録されている『7:77』に「パリピ越しに花火を見て」という歌詞があるがこの歌詞が好きで勝手に色々と思い巡らせている。今回のアルバムタイトルは『クソカワPARTY』で、「パリピ」つまり「パーティ・ピープル」の「パーティ」はアルバムタイトルの「PARTY」にかけられている、と最初聴いて感じた。しかし「パリピ」の「パーティ」と『クソカワ PARTY』の「PARTY」は発音は同じでも意味がまるで違う気がする。「パリピ」の意味が何となくしか分からなかったのでググッてみたら、ウィキペディアには下記のように書かれていた。

 パーティ・ピープルは、英語で「パーティ(英語版)好きな人々」を意味する語句「party people」の音写。日本語では、長音符、中黒の有無による表記の揺れがあるほか、「パーリーピーポー」としたり、さらに「パリピ」と略されることもある。単にパーティーを好むだけでなく、より広く様々な機会に集まって楽しそうに騒ぐ若者たちという含意がある表現であり、否定的に言及される場合には、騒いで周囲に迷惑をかけるという意味合いで用いられる。


「より広く様々な機会に集まって楽しそうに騒ぐ若者たち」は私がパリピというよりパーティという言葉に対して抱いているイメージに合致する。パーティとつくものが昔からずっと苦手で今も出来ることなら関わりたくない。心配しなくても日常生活でパーティに参加しなければいけない局面は滅多にないが、結婚パーティ、誕生日パーティ、同窓パーティなど稀にだが降りかかってくる。祝賀会ならともかくパーティとついている時点で「げっ」と嫌悪感を抱くのはパーティという言葉に前述の固定概念を抱いていて、とにかく集団行動が昔からできない自分はたくさんの人が集まる場でどう振る舞ったらよいのか分からない。どこがどう楽しいのか理解できない場で無理矢理笑ったり楽しそうな人達にテンションを合わせるのが苦行で、壁に寄りかかって気配を消したりそんなに食べたいわけでもないのに他にすることがないので飲食に専念している人のような空気を出す。

大森さん自身もパーティが苦手だといつかのLINELIVEでおっしゃっていた。リリース前に発表されたアルバムについてのコメントには(全文通して読むべきだがあえて抜粋すると)、「最高で最悪な魔法が使えない私にしかできないPARTYをはじめよう何度でも。」と書かれている(ちなみにアルバム3曲目の『REALITY MAGIC』に「魔法が使えない私にしかできないPARTY」という歌詞が登場する。この曲についても思うことがあるので別途まとめたい)。またコメント中に「クソカワ大宴会」との表記もある。「大宴会」、なるほど。「宴会」となると私は途端に抵抗を無くし親近感さえ覚える。なぜなら宴会はパーティより参加者の年齢層が幅広く、周りの盛り上がりに合わせる必要がなく一人で勝手に楽しんでおけばよいというイメージを何となく抱いているからだ。宴会=温泉=浴衣という「弛緩」イメージの連鎖がある。着飾って参加しなければならないパーティほどルールや作法がなく、そこら辺にいる誰だか分からない半裸のおじさんもお咎めなく参加できるような、もう少し開かれたイメージである。イメージなので間違っているかもしれないが私の中ではそのような区別がある。大森さんのライブは、湯会や加賀温泉、昨年のMUTEKI弾き語りツアーの別府公演、バスツアーのカラオケなど宴会スタイルが多い。聴衆は畳敷きの上で思い思いの格好や姿勢で聴くがまったくの無秩序ではなく最低限のマナーがある。『クソカワPARTY』の「PARTY」は、私の思うパーティよりはそういう宴会スタイルのライブに近い、各々自分のルールや温度で自由に盛り上がって楽しめば良い、という意味で使われているかもしれないと感じた。『クソカワPARTY』のドレスコードは「自分」だと大森さんが言われていたのも頷ける。誰かに合わせて無理矢理笑う必要のないPARTY。

『7:77』の「パリピ越しに花火を見て」に話を戻すと、そもそもこの曲は大森さんの相棒、クマのナナちゃんについて歌った曲だと明言されている。だから歌詞もナナちゃん自身について描かかれていると感じ取れる部分が多い。何度もリピートしたくなるアップテンポなメロディとナナコラクリエイター・おおたけお氏による愛がぎちぎちに詰まったMVが素晴らしく、歌詞をつい聴き流しそうになるが私はこの曲の歌詞がメロディやMVと合わせてとてつもなく好きだ。ライブで盛り上がりそうな曲である一方、歌詞に描かれていることが深い。ナナちゃんのことを指しているようで大森さんやファンのことを言及しているような箇所もある。曲の受け取り方はそれぞれあるべきなので細かい歌詞分析は自粛するが、唐突に出てくる「パリピ越しに花火を見て」という歌詞に最初私は戸惑った。おおたけお氏のMVでは歌詞の「花火」に「ナナちゃん砲」とルビがふられているので、ここでの「花火」は8月12日に八丈島にて行われる大森さんのライブの前日に開催される八丈島の花火大会にてファンの企画により有志ファンと大森さん自身が出資して上げられる打ち上げ花火を指している可能性が高い。だが私は最初ルビに気づかず一般的な意味での打ち上げ花火だと無意識に捉えた。私は打ち上げ花火が好きだ。この世の光景と思えぬほど眩く開花するが次の瞬間には消えてしまう花火の儚さに即時性の美しさを感じてたまらなくなる。でも花火大会は苦手だ。だから大抵自宅のベランダかテレビ中継で観る。本当は川辺に行き花火が打ち上がる光景を真近で観たいと思っているができない。それはその場に集まっている人達、言うならばパリピに居合わせるのが億劫だからだ。過去、何度か意を決して花火大会の会場に赴いたことがあるが、黙って花火鑑賞に集中したいのに騒がしく盛り上がっている若者達を見て、やはり私が来るべき場所じゃなかったと思った覚えがある。やがて花火大会とは騒ぐのが好きな若者、生きるのに何の困難もない毎日楽しい人達のホームだという固定観念が私の中に定着してしまった。パリピにだって悩みはあるかもしれないが自分が入れない世界という意味でそういう人達が好みそうだと自分で勝手に決めつけた場所、他には例えば海や祭りやフェスからとことん距離を置いてきた。本当は行きたいのに。

パリピ越しに花火を見て」の主語はわからない。ナナちゃんかもしれないし、大森さんかもしれないし、我々ファンかもしれない。または誰とは特に決まっていないのかもしれない。大森さんは「全力のパリピ感 ピンクグラデレンズめっかわすぎてよお」というコメントと共にピンクのサングラスを着用された写真をInstagramに投稿されたり(ツイッターでないところに重要性がある気がする)、LINELIVEでサングラスを着用されそれを視聴者にプレゼントされてたので、自らパリピ風な格好を見せることで、「パリピ」や「PARTY」について考えてほしいとリリース前からファンに意識的に訴えられていたのかもしれない。この曲を最初に聴いたのがアルバムリリース前にYouTubeに上がった公式MVだったので、リリース後改めて曲だけで聴いてもMVでおおたけお氏がこの歌詞に当てた画(打ち上げ花火に盛り上がる群衆を背後から見た光景、下記スクショ参照)が自然と浮かんだ。おおたけお氏は手を挙げたり体を動かして盛り上がる「パリピ」一人一人に色彩や形で違いを表さず紫色をした集団として描いている。

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花火に盛り上がる集団が少し距離を置いた目線からシンプルに描写されていて、歌詞に相応しい画だと思った。ここからは私観だか、飛び込んでいくことを躊躇させる集団が自分より前の位置で花火を見て盛り上がっている。そこに突入して最前線で見る勇気は持ち合わせていない。しかし群衆の後ろから、「パリピ越しに」なら見られる、好きな花火を見てもいいんだよと言われている。後に続くナナちゃん称賛(と感じた)コールと相まって、私はこの歌詞を聴くと毎回涙が込み上げる。そうか、私も花火を見て良いのか。この歌詞で泣く人はいないかもしれないが私にとってはこれまでの人生で参加を拒んできた感情や後ろめたさに対する救済と容認である。MVの紫色の群衆はライブ会場にいる観客とも見て取れる。私は数年前初めて大森さんのライブに行くまで、ライブ会場やライブにいる観客は怖いと行きもしないで決めつけて近寄らなかった。その嫌悪感は花火や自分が入れない集団(≒パリピ)が集いそうだから辞めようと私が勝手に思って距離を置いている場所に対して抱いている感情と似ていた。大森さんのライブに行くようになってから、ライブは怖くない、音楽現場にずっと入れなかった私でも楽しむことができる場所だと初めて知った。ライブでも花火でも何でも、好きなものや興味のあるものを無理矢理封じる必要はない、行動を躊躇させる要因や苦手だと感じる世界はけっして簡単にはなくならないし同化したり対立したりしなくてもいいから自分の感覚を持ったまま自分のやり方で楽しめば良い、例えばパリピの後ろから好きな花火を見るみたいに、と「パリピ越しに花火を見て」の歌詞は言っている気がする。それこそ大森さんが『クソカワPARTY』に込めた想いなのかもしれない。また、ぬいぐるみやかわいいものを好きだと声を大にして言えないが本当は好きな人でも好きになることを黙って認めてくれるナナちゃんの存在そのものを指しているかもしれない。ナナちゃんの存在意義については思うところがたくさんあるがナナちゃんのことが好きな人それぞれの胸の内に持論があるはずなので辞めておく。大森さんはMCなどでたまにナナちゃんについて言及されるが多くを語らない。その代わりに、今回『7:77』という楽曲として示されたのかもしれない。

行きたいけれど行けなかった場所に行ってみようか、本当はやりたいけれど諦めたり躊躇っていたことが私にもできるのかもしれない、『7:77』はそんな気持ちを起こさせて、同時にナナちゃんへの愛おしさや大森さんがこれまで積み重ねてきた思いや姿勢、ファンとしての在り方を再確認できる大切な曲だ。

 

この夏、私はどうしても打ち上げ花火が見たい。好きだから。

 

『7:77』

 https://youtu.be/r33iHqUgZZ4

 

公式サイト 『クソカワPARTY』 ページ

http://oomoriseiko.info/special/kusokawa-party/?page=2&year=