(続)海の音

雑念のメモ

好きな人について考えたこと(2017年11月のメモ)

最近の新譜や書籍発売発表やそれに伴う大森さんのコメントを読み、昨年11月にメモ的に吐き出した文章を駄文だが後々見返したいと感じたので誤字など訂正して残しておくことにした。11月から半年以上が経過したが大森さんは絶えず変わり続けている。この文章はそういう意味で何か不足している気がしているがそれはこれから出る新譜や書籍をきちんと自分で解釈した上で改めて考えたい。

 

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本来、居酒屋で隣に座った誰かにする話なのかもしれない。だがそういう機会は訪れそうにないので書くことにした。昔からもやもやしたことがあると、突き詰めて考えてしまう。約三年前に出会って以来、大森靖子さんが好きだ。最近、そもそもなぜ自分は大森靖子さんが、大森靖子さんの音楽が好きなのか、ファンとしてどうあるべきなのか考えていた。ということを先日知り合いに打ち明けたら「最近っていうか、ずっとでしょ」と言われた。そうか、ずっと考えていた。

 次々に溢れては流れて消えていくたくさんの感情や言葉や匿名の批評批判に溺れ、またSNS特有のルールに少し疲れてしまい、kitixxxgaiaツアーファイナルの直後ツイッターアカウントを消した。それ以降、大森さんが何をしているのか前程分からなくなり、ファンの方との関わりもほとんどなくなった。情報を得にくいという点では不便だったが苦しいことではなかった。今まで通り現場に行ったりCDを聴けばいいだけのことだった。「好き」という感情は個々人に属するもので誰かと共有するものではない。それぞれの好きの形があるから自分の好きを表に出す必要もない、と自身に言い聞かせていた。それが正しいのか正しくないのか分からないが。いつも私はライブやCDで大森さんの音楽を聴いた時、楽しいと感じたり、明日から頑張ろうと思ったり、音楽ってすごいなと感じる。元気になる。でもある時から私は何を一体大森さんにしているのだろうと疑問に感じ始めた。受け身になっているいるばかりで何一つできていない。

 

そんな時、ニューシングル『draw (A) drow』がリリースされた。作曲編曲は凛として時雨のTKさんで、作詞は大森さん。初めて大森さんご自信のことを書いたと確か言われていた。公式ブログ(2017/7/27付)には「べつに理解されようとも思わないわたしのなかの怒りみたいなものを、共有するためではなくその閃きだけをわざと美しく魅せるために珍しく表面に出した」とある。

 

間違ってる 間違ってゆく この歌を

黒いビニールで海へ流したら 

永遠にしないで 透明にしないで 

絶対にしないで 好きに壊して 

また誰かが 斬新な希望で 

僕の遺作を 世界を 壊して

 

大森さんはいつかのラジオで、「音源をリリースするのはお墓に埋める作業のようだ」と言われていた。「黒いビニールで海へ流す」も死体を連想させるので、それに近い意味なのかなと感じ取った。一度海に流したら手の届かないところへ行ってしまうけれど、二度と出会えないというより、まだ地球上を漂っている感じがする。この世のどこかにまだ存在する。黒いビニールに覆われたまま流れ着いた海岸に打ち上げられる可能性がある。それを拾ってビニールを開けた時、受け手である君はどうするのか、「遺作」を「永遠」や「透明」にせず、「絶対」的な何かと決めつけず、もっと先に昇華させてほしいと言われている気がした。曲の受け取り方は自由だと大森さんはいつも言われているから、私がそう感じたというだけで違うかもしれないが。そして弾き語りアルバム『MUTEKI』リリースに先立ち、『流星ヘブン』の歌詞付MVが公開されて一層その思いは強まった。「口パクで愛してるなんて 誰でもいいならここにいて」「消えてしまう前の私に 一瞬でもいい追いついて」という歌詞からは大森さんの活動十周年を迎えた今、ファンとしての在り方が問われているような気持ちになった。

 

そもそも私はなぜ大森さんが好きなのか。どこが好きなのか。これは10月に終わってしまったラジオ番組の最終回の投稿テーマでもあったがその時も結局良い答えが出ず頭のおかしい人みたいな投稿をしてしまった。曲や歌詞が好き、歌い方が好き、見た目が好き、ファンに対する真摯な姿勢や人柄が好き、音楽や芸術に対する考え方が好き、など理由はたくさんあり結局全部好きになってしまうが、最近いくつかのライブに行くうちに、気付いたことがある。ライブで大森さんが歌っている姿を見ている時、自分が今「生きている」実感が唐突に湧いてくるということに気付いた。死にたい気持ちを抑えるための精神安定剤的な何かではなく、全身に血が巡り内臓が飛び出し毛穴がぶわっと開くようなエネルギーが外側に向かうような感覚が初めて聴いた時からずっとある。それは大森さんの曲とパフォーマンスがそう感じさせるのかもしれない。そしてその感覚は聴く度に歌う姿を見る度に強くなっていく。うまく言えないがそれが大森さんの曲を聴いて一番気持ち良いと感じるところだ。

 

私は大森さんに対して何ができるのだろうか。一ファンとしてどうあるべきだろうか。CDを大量に購入して、全てのライブに欠かさず行ってグッズをたくさん購入することが正しいファンの在り方なのだろうか。それができたら本能ではある。しかし境遇的にも金銭的にも実現させるのは難しい。では私には何ができるのか。私には大森さんが歌う限りずっと聴き続けること、「一生大森靖子」を誓うことくらいしかできない。それは精神論的なものなので実際目に見えにくく形にするのが難しい。「好き」の行き処がない。どこかに好きの残骸を残すべきでないか。そう考えるとツイッターを辞めている場合ではないのではないかと思えてきて、あるイベントの直後ひそかにアカウントを再開した。ライブの感想や大森さんのいいと思うところ感じたことをできるだけ自分の感覚で残したいと思った。それが果たして何になるのか分からないし、多くの人に見てもらいたい分けでもないが、気持ちというのは言葉なり絵なり歌なり、形にしなければ気持ちのまま終わってしまうのではないか。「大森靖子」という名前だけがインターネットの海に泳ぎ出て、穿った見方や批判をされるのを目の当りにすると握り締めていたはずの気持ちが負けてどこかに毀れてしまいそうになる。

 

何かがあってのことだろうが、大森さんは突然、「大森靖子」の名前を志願する人全員に「襲名」すると告げられた。ツイッターのアカウント名を「大森靖子」に変えて、「どうも、大森靖子です」とツイートした人全員に「大森靖子」の名刺を配るという嘘みたいな企画まで発表され、超歌手に代わる個人が希望する肩書をご本人に名刺に書いて貰えるという襲名披露パーティーまで開催された。私は悩んだ末にできなかったけれど(理由は長くなるので割愛する)、現在、面白いように大勢の「大森靖子」が存在している。「大森靖子」で検索するとたくさんのアカウントがヒットし、襲名した誰かのツイートを大森さん本人のツイートかと見間違いそうになる。芸術運動のようでもあるが、「大森靖子」が溢れたことで逆に「大森靖子」さんの本質が輪郭を帯びてくっきりしたように私は感じている。

 

11月28日のFCイベント続・実験室で大森さんは「よく一部の人にしか向けていない音楽と思われるのが嫌。そんなつもりはない。色々な人に届くような曲を作っているつもり。」とおっしゃっていた。「大森靖子を聴いている奴はメンヘラ=大森靖子の音楽はメンヘラ」という解釈が未だにあるようで、大森さんの良い部分を覆うようにステレオタイプな符号が残っているのを時々見聞きする。その事実がとても苦しい。私は音楽のことは詳しく分からないしそれを語る資格もないが、大森靖子さんの音楽は音楽番組で毎週流されるそれと決定的に違う。唯一無二で、歴史的に考えて事件だと思っている。

28日の続・実験室の弾き語りで大森さんはあるエピソードに応えるように、歌いながらテーブルに載らないようステージの端を器用に伝い歩き、それからギターを抱えたまま前方座敷席にそっと飛び移った。それから絶妙なバランスで座敷の淵に片脚を伸ばすようにして腰かけた。少し弾きにくそうだったがその姿勢でファンといつもより近い距離で歌うという大サービスをされた。座敷周辺は暗くスポットライト的に照らされた大森さんはうっとりした優しい表情をされていた。それを私達はただ静かに聴いていた。映画サウンドオブミュージックの草原で主人公が子ども達に歌うシーンを思い出した。動画が上がっているかもしれないがこの時の空気とか息の詰まるような美しさははなかなかネットでは伝わらないだろう。そこに居合わせた人にしか分からない。この日は新曲を含む計11曲歌われた。いつもより多かった気がする。髪型の話になった流れで、最近やられていない『劇的!JOYビフォア―アフター』も歌われた。他の人がどう感じたか分からないが、私にはこれからもずっと歌うから「おばさんになっても抱きしめて」ね、ちゃんと着いて来てねというメッセージのように感じ取れた。

 

今や情報は簡単に拡散し、時々その本質から離れて人を傷付けたり凶器になる。だからこそ私はインターネットが怖いしできることなら触れたくない。でも完全に排除するのは難しい。ネットやSNSでライブや曲の感想を発言したり動画を共有することが最良の手段とは全く思えないし他のやり方があるはずだが、「摘み取った花はすぐ枯れてしまう」から思いついた方法で大森さんが海に流したものを掬い取って残してみようと思う。大森靖子さんの音楽や芸術を「透明に」なかったことにしたくない。それが大森さんをずっと好きでいることなのかと考えている。おっさんの居酒屋トーク終わり。