(続)海の音

雑念のメモ

『勝手にふるえてろ』をみて勝手にふるえて感じたこと

年末から観たいと思っていた映画『勝手にふるえてろ』を正月明けにようやく鑑賞することができた。都心で平日朝イチの上映だったが思ったより人が入っていた。内容的に若い人が多いかと思いきや白髪の男性もいて幅広い年齢の客層だった。ネタバレもあり得るのでこれから観る方で何も知りたくないという方はどうか読まないでいただきたい。

勝手にふるえてろ』は綿矢りさの同名小説を大九明子監督が映画化した作品。綿矢りさの小説は全部読んだわけではないが、人が人に関わる時のどうしようもなさが少し距離を置いた目線から描かれているのが好きだ。ウィキペディアによると、『勝手にふるえてろ』の初掲載は『文藝界』2010年8月号なので、この度十年近くの時を経て映画化されたということになる。大九監督が脚本を書くにあたり綿矢さんは特に細かい指示をされなかったそうなので確かに原作と映画で異なる点も見受けられる。ただ、原作のある映画がそれを忠実に再現すれば良い作品になるとは言い難く、原作は原作、映画は映画としてそれぞれ評価されるべきだと思っている。なので原作との違いがどうこうとあまり言いたくないが、一つだけ挙げると、絶え間ない一人語りで読者を少し突き放しているように感じた主人公ヨシカが実際に服を着て言葉を発しスクリーン上で生きて動いている姿は愛おしく、原作にはなかった親近感を覚えた。それはイチや二など他の登場人物にも言えるかもしれない。また、原作のぱーっと物語が展開していく疾走感(他の綿谷作品と比べて読み易く感じた)は映画でも踏襲されていた。一つだけと言っておきながらもう一つ上げると、原作で主人公は池袋に勤務しており、池袋のアニメイトなど具体的な場所が登場するのだが、映画では舞台は都内だと思うがどこかは不明で池袋という印象は全く感じられなかった。全国の観客が受け入れ易いように、あるいは現実感を薄めるためにこの設定を外したのかもしれないが、個人的には池袋の乙女ロードとかアニメイトが出てきて欲しかったなぁという気持ち。

あらすじは下記公式サイトのとおり。
http://furuetero-movie.com/intro_story/

簡潔に言うと24歳のOLヨシカがイチと二、二人の男の間で悶々とするというストーリー。と書くとなんだ、ありきたりな恋愛コメディかと思われるかもしれないがそう単純なものではないので、気になる方はとりあえず作品を観るか原作を読んで欲しい。ヨシカはイチに中学時代から片想いしていたがほとんど接触したことがなく、二は同じ会社の営業マンでヨシカに一方的に好意を抱いている。もうこの設定だけで、ああああぁぁぁっとなる(もちろん、ならない人もいると思うが)。

恋愛とは難しいもので、好きになった人が自分を好きになるとは限らない。また好きな人に会わないでいるうちに「好きな人」は実像から遠ざかり妄想や理想で肉付けされた別人となっていく。少ない接触経験や会話を雛のように温めて大事に育てあれやこれや時に自分の都合の良いように記憶を改竄というか捏造して色付けする。いつでも脳内に「召喚」して愛でることができる。できるけれど保温し続けたご飯が美味しくなくなるように、脳内での保温期間を経て再会した相手が「好きな人」と一致しないということが当然起こり得る。このような経験がある人とない人、なくても共感できる人と全くできない人でこの映画への見方は大きく変わる気がする。

私はどちらかと言うと、好きな人と結ばれた経験がほとんどなくあっても悲しい結末を迎えているので序盤からヨシカに心を重ねて観てしまっていた。ヨシカの得意とする、好きな相手を直視しないで視界の隅に捉える「視野見」は私も小学生くらいからやっていた。小学校の時、クラスでほとんど話したこともないのに好きだったRくん(仮)のことを今でも思い出す。Rくんは学年が終わる時、遠くの街へ転校した。最後の日にクラス一人ずつRくんに手紙を書いて渡しましょうと先生が企画したため、私は手紙にその想いをしたためようとした。実家の食卓で震えながら手紙を書いたのを覚えている。結局「好き」という文字を書くことができず、適当な文言の途中に「好きです」と吹き出しがついた猫のキャラクターシールを貼った。そんなことしたら余計目立つのに何故。告白らしきことをしたのは人生それが最初で最後かもしれない。笑顔で手紙を受け取ったRくんが手紙を読んだかどうか分からないがその次の年にRくんから年賀状が届いた。当たり障りのない内容だったし他の生徒にも届いた可能性が高いがRくんは手紙を読んでこれを書いたに違いないと勝手に解釈してずっとその年賀状を大事にしてきた。結局年賀状は上京後に部屋を掃除した家族に捨てられてしまったが、Rくんが友達と話していた時の顔(視野見で確認)や最後手紙を受け取る時に立っていた情景は今でもずっと忘れられない。背が高くて、小学生なのに大人のような落ち着きがあり、飄々としていて、他の男子のように暴れたりせず、何を考えているかはっきり分からないが優しい瞳をしていた(はず、彩色されている可能性もある)。今は便利な世の中になったもので、やろう思えばヨシカのように同窓会を開いたり、ネットで本人を探し当てることができる。が、私は卒業アルバムを開くことさえしない。名前はわかるが今すぐ会いたいと思わない。やったこともないフェイスブックに実名で登録して本人に辿り着くのが怖い。承認して欲しくはない。脳内にいてくれればそれでいい。その点ではヨシカは私より行動力がある。

この映画の最大の魅力は松岡茉優に尽きると個人的に思っている。松岡茉優が演技している時の表情が好きだ。美人だがやや男性的な顔立ちをされていて、一見元気で明るいのにどこか憂いある表情をされる。ヨシカを別の女優さんが演じていたらこれほど感情移入できていなかったかもしれない。松岡さんのことは朝ドラ『あまちゃん』で初めて知った。アイドルグループGMTのリーダー役でネギ(埼玉出身という設定だったから)をイメージした衣装を着ていた覚えがある。気が強くてハキハキしていて、でもなんだかウェットな部分もあって応援したくなるキャラクターだった。どうせドラマでしょうと思わせない街角で出会えそうな親しみを感じさせることのできる女優さんだなと思った。素朴といったら語弊があるが、なんというか心の根元に違和感なくすっと寄り添う感じ。だから駅で見かける「いくぜ東北」のポスターに彼女がいると妙な安心感がある。

ヨシカがとにかく可愛い。イチとの思い出を回想するヨシカ、二にイラつくヨシカ、アンモナイトを撫でるヨシカ、好きな音楽を聴きながら皿洗いをするヨシカ、目を細めるヨシカ、反復横跳びをするヨシカ、暴言を吐くヨシカ、一挙一動全部愛おしかった。彼女が動き、話すだけで「がんばってーー」とヨシカを見守る街の人になった気持ちで応援していた。私が出来なかったことがテンポよく進められていくのを眺めるのはとても気持ちのよかった。

二はイチと違って現実の人だ。願ってもないのに頻繁に出会うし(同じ会社とはいえ会い過ぎ?そこは映画なので仕方ない)、強引にライン交換してくるし、行きたくないデートに誘うしどんどんヨシカの領域に土足で踏み込んでくる。原作では主人公の一人称で語られることもあり、二はかなりイラッとする人物に感じ取れたが、映画では黒猫チェルシーのボーカル渡辺大和が演じていることで憎めないような愛らしさが加味されていた。渡辺大和の演技はみうらじゅん原作の映画『色即ぜねれいしょん』でしか観たことがないが、全力で動いたり大きい声を出すことに対する厭らしさみたいなのが全くない人だなと思っていた。それが私には余計苦しかった。どこまでも嫌味で腹立つ奴が寄って来たら構わずイチとの脳内恋愛に没頭できるが、あの笑顔、あの爽快さで来られるとうっとなる。ちょっと待って一回整理させて欲しい、となる。あと、個人的な話だが私は渡辺さんと同郷なので変にシンパシーを感じてしまう。

ヨシカはなぜイチに会う必要があったのだろうか。そもそもヨシカはイチとの脳内恋愛を終わらせる覚悟があったのか、なかったのか。原作でも映画でも、二が現れてどうしていいか分からないからイチに会うという展開になっていて現実逃避のような感じもしたけど、後で考えるとヨシカは二とこれ以上関係を続けるには現実のイチに会い脳内のイチを抹殺するべきだとどこかで思っていたのかもしれない。ディズニー映画だったら王子様が現れてヒロインを救ってくれるがそんな王子様は待っていても来ない。二は見方によっては王子様かもしれないが二にそんな能力はない。自ら切腹して守ってきた世界を終わらせないといけない。それには痛みが付きまとうし致命傷を負い兼ねない。常に頭をフル回転させるヨシカがそうなることを全く想定していなかったとは考え難い。

ヨシカは二に告白された時点で誰ともまだ付き合ったことがなかった。だから「処女性」も守られてきたことの一つである。ヨシカの中では「処女<非処女」という構図があるようで、二に対しては処女であることを頑なに隠して優位に立とうとしていたし、同僚の来留美は昼寝姿から男へのアプローチ方法まで、ヨシカがなれない女としてやや妬みを込めて描かれている。そういえば『色即ぜねれいしょん』での渡辺大知の役どころ(原作が私小説なので若い頃のみうらじゅん)も童貞(MJ風に言うとDT)だった。処女と童貞では全く違う種類のカタルシスがあるはずだと私は信じているが、主人公がわーっと走り抜けていくような疾走感は両作品とも共通している気がする。

イチと再会した後、ヨシカを覆っていた膜はどろどろに溶け、観客は初めてヨシカの生きる現実を種明かし的に知る。それはあの歌のシーンに凝縮されている。あの場面が私は映画の中で一番好きだ。突然のミュージカル調に正直戸惑ったし歌以外の表現方法もあったかもしれないが、あそこは歌でよかったなぁと思う。ディズニー映画でも感情の転換を表す際に決まって歌が挿入される。監督がそのある意味ベタな方法をあえて使ったことで、あのひりひりとした痛みや喪失感が歌い踊る主人公の微かな可笑みと混ざって輪郭を極め、ずどーんと観ている者の胸に真正面から突き刺さってくる。痛い。その大きく開いた傷口から色んなものが入り込んできて連鎖反応のように仕事への気力も失う。私だったらワンカップ一杯では済まないだろう。そしてあのラストシーンへと繋がる。

結果としてヨシカは自分で自分を守ってきたシールドを溶かしてしまう必要があったのか私には分からない。あのラストシーンをハッピーエンドあるいは希望と捉える人もいるかもしれないが、私はヨシカに置き去りにされたような寂しさを少しだけ覚えた。ここからは私の想像だが、ヨシカがこれから二と一緒に過ごしていくうちに、イチの思い出を一切合財記憶から消却して、イチと一緒に盛り上がったウィキペディアで調べた絶滅動物から興味を失ったり、届いた時あんなに喜んでいたアンモナイトが棚の上に放置され埃を被ったら悲しい。ヨシカがネット通販でしか買えない(という設定だと後で知った)ゆえにアンバランスにコーディネートされた絶妙に可愛い服装が完璧なモテコーデになってしまったら悲しい。好きなアニメや音楽のことを忘れてしまったら悲しい。「ファック!!」って言わなくなったら悲しい。などなど彼女がこれまで大事にしてきたものがなかったことにされたり、彼女を無意識のうちに可愛くしていた要素が色褪せていくことを私は一人で勝手に恐れている。この先どうなるか分からないしヨシカの性格上すぐに変わることはないだろうがつい悪い方向に考えてしまう。そのままでいてくれなんて、アイドルの少女性に拘って一生そのまま変わらないでいてくれと切望する迷惑なオタクみたいだなと自分でも思うが、ヨシカが生きにくさと引き換えにして守ってきた大切を遠ざけてもいいけど心の奥に仕舞って時々でいいから取り出したり召喚して愛でて欲しい。

思い出しただけで動悸のするような過去や歴史をミイラのように蓋付きの箱に閉じ込めておく資格が誰にだってあるはずし、本人がそうしたいなら一生抱えて生きていてもいいのでは、それと現実で起こる事象は別物なのでは、と信じている。ヨシカがこの先どうなるのかなという気持ちを抱えたまま二(役の渡辺大知)が歌うエンディング曲を聴いて余計胸がざわざわしたので、急いで映画館を出て隣にあった店に駆け込んでビールを一気飲みした。数日経ってからパンフレットやネット上にある色々な感想やレビューを読んだ。結末があれでよかったのか未だに分からないが、ヨシカよりも云年多く生きた立場としては、ヨシカと二がこれから付き合っていくなら二はヨシカが切腹して失ったものも一緒に掻き集めてそっと体内に戻しつつヨシカを愛してくれたら嬉しいなと思った。

 

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観終った直後にメモした好きなシーン

*ヨシカがイチに会いに行くときの恰好
首元にスカーフ、足元は白タイツとヒールでお洒落してるのが可愛い。この格好をした写真がパンフレットの表紙にも使われていて、後で見ると酒が入っていると思わしき北野エース(伊勢丹でなく北野エース、ここ肝心)の縦長の紙袋持ってるし、ヨシカ~がんばった~ううう~と愛おしさ爆発。個人的にヨシカの他の服装も全部好みだった。家にいる時の恰好も可愛かった。

*イチが白ニットを着ているところ
厳しいことを言い放つのに無垢な感じの白を纏っているその差がヨシカの脳内と現実のイチとのギャップのようで苦しくもいい表現だなと思った。

*二の車のキーにお守りがついているところ
こういう細かい部分まで人物設定されているのがいいなぁと思った。二、めちゃくちゃ鍵にお守り付けてそうだし。

*『あまちゃん』っぽい音楽
これは気のせいかもしれないけど一箇所そういう音が流れたところがあって、もしオマージュなら『あまちゃん』ファンとしては嬉しい。

*ヨシカが二から逃げる時に靴の踵を履き直してからダッシュするところ
松岡茉優はなぜこんなに走る演技が上手いのだろうか。惚れ惚れした。あの公園もいい。

*話しているヨシカが現在と過去で交差しているところ
こういう手法を何と呼ぶのか詳しいことは分からないが同一人物が時間を行き来しながら語り続けるのが面白いなぁと思った。