(続)海の音

雑念のメモ

チャンキー前田

チャンキーヒールという単語を初めて知った途端、「チャンキー前田」という架空の人物が頭の中に出現した。
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チャンキー前田は腹話術人形のふくちゃんと暮らしていて性格は比較的明るいが友達はいない。好物は草餅。海外でイルカと泳ぐことが夢。
 
チャンキー前田は小3の時に受けた交通安全教室の腹話術に衝撃を受けたのをきっかけに腹話術師を志す。ただそれだけでは生計が立てられないので書店でアルバイトをしている。休憩中に旅行雑誌を眺めていたら店長に鼻で笑われて以来店長に積極的に夢の話をするのを辞めた。先週店長主催の飲み会があったがカメの餌やりで忙しいという理由で断った。カメは飼っていない。彼の好きな芸人「味噌漬☆パラダイス」の深夜ラジオを愛聴しているが投稿は一度も採用されたことがない。ラジオネームは「草もち男」。
 
店長に理不尽なことで怒られた日の夜、愚痴を漏らすとふくちゃんは「まあそんな日もあるよね」と明るく慰めてくれた。チャンキー前田はアパートのベランダからふくちゃんと二人で雲に半分隠れた月を眺め、Amazonプライムで発注した好きな漫画の新刊の不在票を握りしめて泣いた。「ふくちゃん、明日からもがんばろうね」「うん君は天才!えらい!あははははは」
 
明日は早番。マキちゃんがいる日。江の島水族館のお土産を渡すんだ。

生きる宣言

昔から走れず泳げず歌えず、人前に出ればうまく話せず思い切って言葉を捻り出せば意味不明だと狂人扱いされ、唯一絵を描くのが好きだったけど高校で基礎デッサンが全然できなくて美術の先生にいつも叱られて美大断念。それきりほとんど描かなくなってしまった。何においても人より優れたものがなく、とりあえず勉強だけは真面目にしていたのだけど別段好きでもないしテストで良い点取ることや内申点を上げることが一体何の役に立つのか分からないと気づくや一気にやる気を失い大学受験戦争から見事に脱落した。悲しいことに、自信を持ってこれだけは誰にも負けませんと言えるものがどこを探しても一つもない。子育てにおいてはまあ胸を張れるがそれは自分の特技ではなく状況だと思っている。お遊戯会で主役に抜擢され、何でも器用にこなしていた(いるように見えた)きょうだいをいつも横目に放課後、学校の裏にある、怪しいと噂されるおっさんが実家の一階で一人でやってる薄暗い絵画教室に直行し絵を描くことだけが楽しみだった。部屋の中に先生の描いた絵が数枚飾ってあったがどれも雲の浮かんでいる空の絵だった。全部同じに見えた。先生の影響か子どもにしては無意識のうちにパレットの上で暗い色を作って塗りがちになり「夜中に床に横たわる人形」とかよく分からない絵ばかり描いていた。絵画教室で友達は一人もできなかったし、先生ともほとんど口を利くことがなかったけれど、先生は時々絵を褒めてくれた。何度か部屋の奥に年老いた女の姿を見かけた。いたと思ったら消えて幻のようで怖かったけれどおそらく先生の母親だったのだと思う。絵画教室へは5歳から12歳まで週に一度通ったが、一度だけ、確か高学年の時、先生が後ろから近づき長い髪と首筋を後ろから撫でるように触れ「汚れるからくくっておこうね」と長い髪を輪ゴムで縛られた。その時のぞくっとした感覚と髪が輪ゴムに巻き込まれて痛かったこと、鼻孔に染みついた油絵具の匂いを今でも鮮明に覚えている。抵抗せずただ前を向いて黙っていた。親は私が暗い絵ばかり持ち帰るので別の絵画教室に行かせるべきだったと言った。先日また一つ歳を取った。悲しい。「誕生日を迎えると死に近づくから小さい頃から全く嬉しくなかった」とある小説家は言っていた。まさにそうだと共感した。数年前まではできませんとへらへら笑って許されることもあったが歳を重ねていくうちに笑っているだけで済まされないぞという思いが強くなるばかりで己の行く末を思うと恐ろしい、などという文を書いてもこの通りの稚拙さで、毎日食べて寝て排泄して呼吸するのを繰り返しているだけの醜い中年女と化している。何かしなければと思うけれど何もできないでいる。あーと声を出しているうちにそのまま死んでいくのかもしれない。そう考えていた矢先、同じ人が好きな方がお亡くなりになったと知った。面識はないが今までにないくらい自分に置き換えて考えた。その方が想像を遥かに超えて、「行動していた」「生きていた」様子を泣きながら聞いた。自分は今、惰性だけで生きているような気がしてやはり何かしなければ動かなければと親が毎年黙って送ってくれるケーキを早朝暗い台所に立って一人貪りながら決意した。生きる宣言。

『勝手にふるえてろ』をみて勝手にふるえて感じたこと

年末から観たいと思っていた映画『勝手にふるえてろ』を正月明けにようやく鑑賞することができた。都心で平日朝イチの上映だったが思ったより人が入っていた。内容的に若い人が多いかと思いきや白髪の男性もいて幅広い年齢の客層だった。ネタバレもあり得るのでこれから観る方で何も知りたくないという方はどうか読まないでいただきたい。

勝手にふるえてろ』は綿矢りさの同名小説を大九明子監督が映画化した作品。綿矢りさの小説は全部読んだわけではないが、人が人に関わる時のどうしようもなさが少し距離を置いた目線から描かれているのが好きだ。ウィキペディアによると、『勝手にふるえてろ』の初掲載は『文藝界』2010年8月号なので、この度十年近くの時を経て映画化されたということになる。大九監督が脚本を書くにあたり綿矢さんは特に細かい指示をされなかったそうなので確かに原作と映画で異なる点も見受けられる。ただ、原作のある映画がそれを忠実に再現すれば良い作品になるとは言い難く、原作は原作、映画は映画としてそれぞれ評価されるべきだと思っている。なので原作との違いがどうこうとあまり言いたくないが、一つだけ挙げると、絶え間ない一人語りで読者を少し突き放しているように感じた主人公ヨシカが実際に服を着て言葉を発しスクリーン上で生きて動いている姿は愛おしく、原作にはなかった親近感を覚えた。それはイチや二など他の登場人物にも言えるかもしれない。また、原作のぱーっと物語が展開していく疾走感(他の綿谷作品と比べて読み易く感じた)は映画でも踏襲されていた。一つだけと言っておきながらもう一つ上げると、原作で主人公は池袋に勤務しており、池袋のアニメイトなど具体的な場所が登場するのだが、映画では舞台は都内だと思うがどこかは不明で池袋という印象は全く感じられなかった。全国の観客が受け入れ易いように、あるいは現実感を薄めるためにこの設定を外したのかもしれないが、個人的には池袋の乙女ロードとかアニメイトが出てきて欲しかったなぁという気持ち。

あらすじは下記公式サイトのとおり。
http://furuetero-movie.com/intro_story/

簡潔に言うと24歳のOLヨシカがイチと二、二人の男の間で悶々とするというストーリー。と書くとなんだ、ありきたりな恋愛コメディかと思われるかもしれないがそう単純なものではないので、気になる方はとりあえず作品を観るか原作を読んで欲しい。ヨシカはイチに中学時代から片想いしていたがほとんど接触したことがなく、二は同じ会社の営業マンでヨシカに一方的に好意を抱いている。もうこの設定だけで、ああああぁぁぁっとなる(もちろん、ならない人もいると思うが)。

恋愛とは難しいもので、好きになった人が自分を好きになるとは限らない。また好きな人に会わないでいるうちに「好きな人」は実像から遠ざかり妄想や理想で肉付けされた別人となっていく。少ない接触経験や会話を雛のように温めて大事に育てあれやこれや時に自分の都合の良いように記憶を改竄というか捏造して色付けする。いつでも脳内に「召喚」して愛でることができる。できるけれど保温し続けたご飯が美味しくなくなるように、脳内での保温期間を経て再会した相手が「好きな人」と一致しないということが当然起こり得る。このような経験がある人とない人、なくても共感できる人と全くできない人でこの映画への見方は大きく変わる気がする。

私はどちらかと言うと、好きな人と結ばれた経験がほとんどなくあっても悲しい結末を迎えているので序盤からヨシカに心を重ねて観てしまっていた。ヨシカの得意とする、好きな相手を直視しないで視界の隅に捉える「視野見」は私も小学生くらいからやっていた。小学校の時、クラスでほとんど話したこともないのに好きだったRくん(仮)のことを今でも思い出す。Rくんは学年が終わる時、遠くの街へ転校した。最後の日にクラス一人ずつRくんに手紙を書いて渡しましょうと先生が企画したため、私は手紙にその想いをしたためようとした。実家の食卓で震えながら手紙を書いたのを覚えている。結局「好き」という文字を書くことができず、適当な文言の途中に「好きです」と吹き出しがついた猫のキャラクターシールを貼った。そんなことしたら余計目立つのに何故。告白らしきことをしたのは人生それが最初で最後かもしれない。笑顔で手紙を受け取ったRくんが手紙を読んだかどうか分からないがその次の年にRくんから年賀状が届いた。当たり障りのない内容だったし他の生徒にも届いた可能性が高いがRくんは手紙を読んでこれを書いたに違いないと勝手に解釈してずっとその年賀状を大事にしてきた。結局年賀状は上京後に部屋を掃除した家族に捨てられてしまったが、Rくんが友達と話していた時の顔(視野見で確認)や最後手紙を受け取る時に立っていた情景は今でもずっと忘れられない。背が高くて、小学生なのに大人のような落ち着きがあり、飄々としていて、他の男子のように暴れたりせず、何を考えているかはっきり分からないが優しい瞳をしていた(はず、彩色されている可能性もある)。今は便利な世の中になったもので、やろう思えばヨシカのように同窓会を開いたり、ネットで本人を探し当てることができる。が、私は卒業アルバムを開くことさえしない。名前はわかるが今すぐ会いたいと思わない。やったこともないフェイスブックに実名で登録して本人に辿り着くのが怖い。承認して欲しくはない。脳内にいてくれればそれでいい。その点ではヨシカは私より行動力がある。

この映画の最大の魅力は松岡茉優に尽きると個人的に思っている。松岡茉優が演技している時の表情が好きだ。美人だがやや男性的な顔立ちをされていて、一見元気で明るいのにどこか憂いある表情をされる。ヨシカを別の女優さんが演じていたらこれほど感情移入できていなかったかもしれない。松岡さんのことは朝ドラ『あまちゃん』で初めて知った。アイドルグループGMTのリーダー役でネギ(埼玉出身という設定だったから)をイメージした衣装を着ていた覚えがある。気が強くてハキハキしていて、でもなんだかウェットな部分もあって応援したくなるキャラクターだった。どうせドラマでしょうと思わせない街角で出会えそうな親しみを感じさせることのできる女優さんだなと思った。素朴といったら語弊があるが、なんというか心の根元に違和感なくすっと寄り添う感じ。だから駅で見かける「いくぜ東北」のポスターに彼女がいると妙な安心感がある。

ヨシカがとにかく可愛い。イチとの思い出を回想するヨシカ、二にイラつくヨシカ、アンモナイトを撫でるヨシカ、好きな音楽を聴きながら皿洗いをするヨシカ、目を細めるヨシカ、反復横跳びをするヨシカ、暴言を吐くヨシカ、一挙一動全部愛おしかった。彼女が動き、話すだけで「がんばってーー」とヨシカを見守る街の人になった気持ちで応援していた。私が出来なかったことがテンポよく進められていくのを眺めるのはとても気持ちのよかった。

二はイチと違って現実の人だ。願ってもないのに頻繁に出会うし(同じ会社とはいえ会い過ぎ?そこは映画なので仕方ない)、強引にライン交換してくるし、行きたくないデートに誘うしどんどんヨシカの領域に土足で踏み込んでくる。原作では主人公の一人称で語られることもあり、二はかなりイラッとする人物に感じ取れたが、映画では黒猫チェルシーのボーカル渡辺大和が演じていることで憎めないような愛らしさが加味されていた。渡辺大和の演技はみうらじゅん原作の映画『色即ぜねれいしょん』でしか観たことがないが、全力で動いたり大きい声を出すことに対する厭らしさみたいなのが全くない人だなと思っていた。それが私には余計苦しかった。どこまでも嫌味で腹立つ奴が寄って来たら構わずイチとの脳内恋愛に没頭できるが、あの笑顔、あの爽快さで来られるとうっとなる。ちょっと待って一回整理させて欲しい、となる。あと、個人的な話だが私は渡辺さんと同郷なので変にシンパシーを感じてしまう。

ヨシカはなぜイチに会う必要があったのだろうか。そもそもヨシカはイチとの脳内恋愛を終わらせる覚悟があったのか、なかったのか。原作でも映画でも、二が現れてどうしていいか分からないからイチに会うという展開になっていて現実逃避のような感じもしたけど、後で考えるとヨシカは二とこれ以上関係を続けるには現実のイチに会い脳内のイチを抹殺するべきだとどこかで思っていたのかもしれない。ディズニー映画だったら王子様が現れてヒロインを救ってくれるがそんな王子様は待っていても来ない。二は見方によっては王子様かもしれないが二にそんな能力はない。自ら切腹して守ってきた世界を終わらせないといけない。それには痛みが付きまとうし致命傷を負い兼ねない。常に頭をフル回転させるヨシカがそうなることを全く想定していなかったとは考え難い。

ヨシカは二に告白された時点で誰ともまだ付き合ったことがなかった。だから「処女性」も守られてきたことの一つである。ヨシカの中では「処女<非処女」という構図があるようで、二に対しては処女であることを頑なに隠して優位に立とうとしていたし、同僚の来留美は昼寝姿から男へのアプローチ方法まで、ヨシカがなれない女としてやや妬みを込めて描かれている。そういえば『色即ぜねれいしょん』での渡辺大知の役どころ(原作が私小説なので若い頃のみうらじゅん)も童貞(MJ風に言うとDT)だった。処女と童貞では全く違う種類のカタルシスがあるはずだと私は信じているが、主人公がわーっと走り抜けていくような疾走感は両作品とも共通している気がする。

イチと再会した後、ヨシカを覆っていた膜はどろどろに溶け、観客は初めてヨシカの生きる現実を種明かし的に知る。それはあの歌のシーンに凝縮されている。あの場面が私は映画の中で一番好きだ。突然のミュージカル調に正直戸惑ったし歌以外の表現方法もあったかもしれないが、あそこは歌でよかったなぁと思う。ディズニー映画でも感情の転換を表す際に決まって歌が挿入される。監督がそのある意味ベタな方法をあえて使ったことで、あのひりひりとした痛みや喪失感が歌い踊る主人公の微かな可笑みと混ざって輪郭を極め、ずどーんと観ている者の胸に真正面から突き刺さってくる。痛い。その大きく開いた傷口から色んなものが入り込んできて連鎖反応のように仕事への気力も失う。私だったらワンカップ一杯では済まないだろう。そしてあのラストシーンへと繋がる。

結果としてヨシカは自分で自分を守ってきたシールドを溶かしてしまう必要があったのか私には分からない。あのラストシーンをハッピーエンドあるいは希望と捉える人もいるかもしれないが、私はヨシカに置き去りにされたような寂しさを少しだけ覚えた。ここからは私の想像だが、ヨシカがこれから二と一緒に過ごしていくうちに、イチの思い出を一切合財記憶から消却して、イチと一緒に盛り上がったウィキペディアで調べた絶滅動物から興味を失ったり、届いた時あんなに喜んでいたアンモナイトが棚の上に放置され埃を被ったら悲しい。ヨシカがネット通販でしか買えない(という設定だと後で知った)ゆえにアンバランスにコーディネートされた絶妙に可愛い服装が完璧なモテコーデになってしまったら悲しい。好きなアニメや音楽のことを忘れてしまったら悲しい。「ファック!!」って言わなくなったら悲しい。などなど彼女がこれまで大事にしてきたものがなかったことにされたり、彼女を無意識のうちに可愛くしていた要素が色褪せていくことを私は一人で勝手に恐れている。この先どうなるか分からないしヨシカの性格上すぐに変わることはないだろうがつい悪い方向に考えてしまう。そのままでいてくれなんて、アイドルの少女性に拘って一生そのまま変わらないでいてくれと切望する迷惑なオタクみたいだなと自分でも思うが、ヨシカが生きにくさと引き換えにして守ってきた大切を遠ざけてもいいけど心の奥に仕舞って時々でいいから取り出したり召喚して愛でて欲しい。

思い出しただけで動悸のするような過去や歴史をミイラのように蓋付きの箱に閉じ込めておく資格が誰にだってあるはずし、本人がそうしたいなら一生抱えて生きていてもいいのでは、それと現実で起こる事象は別物なのでは、と信じている。ヨシカがこの先どうなるのかなという気持ちを抱えたまま二(役の渡辺大知)が歌うエンディング曲を聴いて余計胸がざわざわしたので、急いで映画館を出て隣にあった店に駆け込んでビールを一気飲みした。数日経ってからパンフレットやネット上にある色々な感想やレビューを読んだ。結末があれでよかったのか未だに分からないが、ヨシカよりも云年多く生きた立場としては、ヨシカと二がこれから付き合っていくなら二はヨシカが切腹して失ったものも一緒に掻き集めてそっと体内に戻しつつヨシカを愛してくれたら嬉しいなと思った。

 

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観終った直後にメモした好きなシーン

*ヨシカがイチに会いに行くときの恰好
首元にスカーフ、足元は白タイツとヒールでお洒落してるのが可愛い。この格好をした写真がパンフレットの表紙にも使われていて、後で見ると酒が入っていると思わしき北野エース(伊勢丹でなく北野エース、ここ肝心)の縦長の紙袋持ってるし、ヨシカ~がんばった~ううう~と愛おしさ爆発。個人的にヨシカの他の服装も全部好みだった。家にいる時の恰好も可愛かった。

*イチが白ニットを着ているところ
厳しいことを言い放つのに無垢な感じの白を纏っているその差がヨシカの脳内と現実のイチとのギャップのようで苦しくもいい表現だなと思った。

*二の車のキーにお守りがついているところ
こういう細かい部分まで人物設定されているのがいいなぁと思った。二、めちゃくちゃ鍵にお守り付けてそうだし。

*『あまちゃん』っぽい音楽
これは気のせいかもしれないけど一箇所そういう音が流れたところがあって、もしオマージュなら『あまちゃん』ファンとしては嬉しい。

*ヨシカが二から逃げる時に靴の踵を履き直してからダッシュするところ
松岡茉優はなぜこんなに走る演技が上手いのだろうか。惚れ惚れした。あの公園もいい。

*話しているヨシカが現在と過去で交差しているところ
こういう手法を何と呼ぶのか詳しいことは分からないが同一人物が時間を行き来しながら語り続けるのが面白いなぁと思った。

ゴミ袋のアリス

あれは小2の図工の時間だった。まだ図工の先生に教えてもらう前の学年だったからいつもの教室だった。ニシイ先生という担任の先生がいた。家庭から持ってきたゴミ袋や紙袋で班ごとにテーマを決めて衣装を作って完成したらそれぞれ発表しましょう、という授業だった。自分の班が何のテーマだったか忘れたが私は意気揚々とデパートの紙袋やその他色々でロボットの衣装を作った。今で言うガラピコみたいな。けっこういい感じのが出来たと思った。隣の班も完成したらしくその中のクラスの花形みたいな女の子が青いゴミ袋でできた「不思議の国のアリス」でアリスが着ているようなワンピースを着ていた。紙袋を解体して作ったエプロンもちゃんとついていてパフスリーブ袖で。とにかく上手で可愛かった。明るくて人気のあるその女の子は勝ち誇ったように笑っていた。周囲も先生もすごいすごいと言った。途端に自分のロボットが全く可愛くなくみすぼらしく思えてきて、着ていた紙袋の衣装を全部破り捨てた。そして机に突っ伏して泣いた。先生はどうして私が泣いているのか分からず困惑していた。こんなにすてきにできたのに、と確か言っていた。私だってアリスになりたかった。でもなれなかった。なれるのは道化のロボット。それから何十年経ってもあの時の何に対するか分からない悔しさややるせなさがずっと頭に残っている。あの子は今どうしているだろうか。ゴミ袋でできたワンピースのことを覚えているだろうか。

MUTEKI弾き語りツアー 大阪公演(2017.12.22)

年末に書くだけ書いて放置していた…

 

12月22日金曜日、会社を休んで大森靖子さんのMUTEKI弾き語りツアー大阪公演に行った。当日、朝から息子と二人で実家に帰り、昼過ぎに難波へ向けて出発した。梅田に着くと昔家族でよく行ったジューススタンドがあるのを確認するなどノスタルジーに浸りつつ周辺をフラフラした。懐かしさに浸っていたら開場時間が近づいたので、地下鉄に乗った。難波はよく知っている街だと思っていたが久しぶりすぎて駅を降りた瞬間地下でも地上でも迷ってしまい自分がどこを歩いているか分からなくなった。スマホの画面上で現在位置を示す丸印が目的地の千日前ユニバースから遠のいたり近づいたりするのを見てドキドキしながら難波の喧噪を早歩きで通り抜けた。彷徨った挙句やっと「味園ユニバース」と書かれた青と赤に光る看板とライブの入場を待つ人だかりを見つけた時は天国に辿り着いたような気持ちだった。会場の前で偶然何人か知っている人に会ってほっとした。自分の番号が来て入場した。会場は想像以上に煌びやかで煙草の匂いがし昭和のクラブとして使われていた時の名残りがまだちゃんと残っていた。来る前に見ていた会場写真やいつかテレビで観たことのある4-5人掛けの赤いラウンジソファがいくつも並んでいて興奮した。実際のステージではなく真ん中にいくつもマイクが設置されていて大森さんは今日ここで歌んだなとすぐに分かった。実際のステージには観客が座れるよう椅子が並べられていた。その前には座布団が敷かれた席もあった。色んな席があり迷ったけれどやっぱり昔の人が実際にステージを観て座っていたソファ席がいいなぁと思い、相席できる人もいないけど後ろの方のラウンジソファの真ん中に座らせてもらった。すぐ側ではないけれどステージのネオンがよく見えて大森さんがこちらを向いた時に直線で結ばれるような場所だった。ビールを飲んだりナナちゃんの写真を撮ったり(いつもよりたくさんの人が撮っていた)、知り合いと少し話したりしたがあまり席から動かず会場のネオンやライトをきょろきょろ見回してこれから始まるショーをドキドキしながら待っていた。

まもなく袖から大森さんらしきシルエットが見えたかと思うとブルーのキラキラしたワンピースを着た大森さんが登場されてライブが始まった。いい席に座ることができたからかとても落ち着いてみられたライブだった。「ノスタルジックj-pop」で目が合った時くしゃっと笑ってくれたのが嬉しかった。目が合ったのは気のせいだったかもしれないけど思い込みでもいい。むしろ思い込みぐらいの方がいい。新曲「東京と今日」を初めて聴けたことが嬉しかった。大森さんの声がすうっと天まで伸びて広がっていくような気持ちの良い曲だった。東京に来た時どんな気持ちだったっけと考えていると涙が止まらなかった。大好きなもう一つの新曲「死神」も聴けた。やっぱりいい曲だ。他にも好きな曲や普段あまりやらない曲を聴けてただただ満足だった。あえて合わない曲をとチカチカと派手に点滅させたネオンをバックに歌った「呪いは水色」がとてもよかった。この曲のどろどろとした濃い感情とネオンのチカチカが合っているように私は感じた。アンコールではこの日一番聴きたかった「ハンドメイドホーム」と「少女漫画少年漫画」を聴けて、その前の「相撲」で笑って乾いた涙がまた溢れてきた。終演後は放心状態でしばらく呆然としていた。落ち着いてから会場を出ると飲み屋やラブホテルから放たれるネオンや照明がぎらぎらしていて人がたくさん歩いていて夜なのに昼間のように明るかった。歌舞伎町の明るさとはまた少し違った。現実でないような夢の世界にいるような不思議な心地がした。実家に着いても余韻が抜けずコートを着たまま家族が寝て静まりかえった居間の床に座ってぼんやり今日みた光景を舐めるように思い出していた。今までで一番集中して聴くことができたライブだった。これが今年最後の大森靖子さんのライブとなったけれどそれはそれでよかったかもしれない。一つだけ後悔しているのは会場に辿り行くことで頭がいっぱいになっていて完全に抜けていたが、昭和の古着ワンピースとかサテン生地の服とか、もう少し会場に合った格好をして来ればよかったなぁと後になって考えた。その失敗も良い思い出としておきたい。大森さん、2017年ありがとうございました。

大森靖子の出張実験室in幼稚園~一緒にあそぼう親子イベント~(2017.11.19)

池袋から西武線に乗って最寄駅の改札を出て、会場の幼稚園はどこかなと地図を見ようとしたらちょうど改札の前にいた友人と娘さんに遭遇。迷う心配がなくなり安心した。一緒に地図を見て駅を出ってこっちかなぁと歩いているとナナちゃんパーカーを着たお子さん連れの男性を発見、友人が声をかけてみんなでぞろぞろと歩いて向かった。駅前の立ち食いうどん屋さんからほわーと湯気が出ていてこのお店絶対美味しいなと思った。

すぐに幼稚園の看板が見えてきた。園庭に入ると子ども達が自由に遊んだり歩き回っており、これから穏やかで楽しい時間になることが想像できた。幼稚園は思っていたより小さくて歴史がある感じで、だからこそ自分が何十年も前に実際幼稚園に通っていた頃の思い出や懐かしさがどっと込み上げてきた。建物の中は日曜日で園児や先生がいないためか、暗くて冷んやりしていた。入口で前記入制(子どもが横にいて書き物はできないので素晴らしい配慮)のアンケート用紙を渡してお金を払った後、靴を脱いで上がる。会場は建物の最上階だったのでいくつも階段を登らなければならなかった。子どもにとっては少し大変だったかもしれないが途中何度も「この上が会場です」「あとちょっと!」等という大森さんの文字やナナちゃんが直筆でかかれたピンクの紙が貼ってあって、子どもというより私が励まされた。サイも「あ、ナナちゃんいた!」と張り紙を見る度に喜んでいた。サイは階段の途中に掲示されている園児達が作ったらしいキツネの折り紙作品を見ても「おーもりさんがつくったのかなぁ」と感心していた。

最上階まで登るとぱっと明るくなり、なんだか天国に辿り着いたみたいだった。会場には、園児用の木製机がきれいに並んでおり、机には四脚ずつこれも園児用の椅子が置いてあった。前方に舞台があった。普段は入園式やお遊戯会が行われてる部屋らしかった。ナナちゃんやまほうさちゃんの絵、ピンク色の風船が壁やピアノなど至るところに貼られていて、部屋全体が可愛く飾り付けられていた。大森さんの曲がかかっていた。天国にようこそ、と聞こえた(気がした)。舞台手前にはピンク色の布がかけられた演台があり、真ん中にナナちゃんが座っていて左右に水とりんごジュースが置かれていた。ナナちゃんは全てを悟ったような澄んだ表情をしており、天国の番人(?)のようだった。「よくきたね」と言われた(気がした)。

前の机が空いていたのでそこにサイと隣同士で座ったがサイは知らない場所と人達に緊張して落ち着かないようだった。美マネさんが「外におやつや飲み物がありますのでご自由にどうぞ」とアナウンスしてくれたのでサイと廊下に出た。ジュースもあればお茶もあり、お菓子も小さい子どものツボをつくものばかりで隅々まで大森さんの心遣いが感じられた。サイは嬉しそうに演台にあったのと同じ幼児用りんごジュースとメロンパンナちゃんのお菓子を選び(こういう時の判断が意外に冷静)、また席に戻った。いただいたお菓子とジュースを早速食べ始めたら緊張がほぐれてきたようでお向かいに座ったお子さんとも少しずつ交流し始めた。始まる前にトイレでオムツを替えていると大森さんの声がしたので慌てて戻った。今回の実験室は開場から始まるまで15分間しかない。普段の実験室では1時間あるが、子どもは30分も待っていられないから15分くらいがちょうどいい。細かな所までよく配慮されている。

大森さんと二宮さんが登場され、大森さんが挨拶をされた後、ラジオ体操をした。大森さんが舞台に上がられると何人かの子ども達もわっと上がろうとし大森さんは笑顔で手招きした。大森さんと子ども達が横並びになる形でラジオ体操が始まった。サイはやっぱりまだ緊張していたのかラジオ体操の曲がかかり他の人達が立って体操し始めても座ったまま難しい顔をしていた。サイに話しかけていたらラジオ体操は終わってしまった。

続いてトーク。ナナちゃんのいる演台に大森さんと二宮さんがいつもの実験室トークの時のように着席された。「騒いでも何しててもいいですから」と大森さんが冒頭で言われたとおり、子ども達はうろうろしたり舞台に上がったり叫んだり自由そのものだった。通常であれば親はこういう時、周囲への申し訳なさでいっぱいになるが、ここではそれが当たり前なので誰も気にしていなかった。大森さんと二宮さんも特に気にせずアンケート用紙を読み上げていった。アンケートのお題どおり、子育てや大森さんのお子さんの話が中心で興味深い話が多かったがサイのことが気になってあまり集中して聞くことができなかった。好きな人が目の前で話をしているのにちゃんと聞いていないなんて何かすごく贅沢な状況だなと思った。

大森さんはトーク中、子ども達を意識されたのか「アンパンマン」や「カレーパンチ」など子どもが気になりそうな単語を少し大きめの声でゆっくり発音されていた。それがサイにはすごく効果的だったようで、キーワードが聞こえる度に「おーもりさん、あんぱんまんっていったね」とにやにやしていた。大人でも全然分からない話をしている人より、自分が関心ある事の話をしている人の方が身近な存在に思える。しかも子どもにとって大人の話はたいてい面白くない。単語を知っていても文脈が分からなかったりする。でもその中で好きな言葉が出て来たら嬉しい。大森さんのMCやラジオが魅力的なのは言わずもがなだが、子ども達さえも惹きつけるのだなぁとただ感心するばかりだった。いつかの実験室で話されていたツイート禁止のエピソードをここでも話されていたが、普段子どもがいて実験室に来られない人を想定してのことだろうと思った。

30分程話されたところで未読のアンケート用紙が大森さんの手元にまだたくさん残っていたが、子ども達の様子を見てこれ以上続けない方がよいと判断されたのか「トークは終わりにして次の工程に移りましょう、工作をしまーす」と明るく言われた。それでも大森さんは残ったアンケートを熱心に読んでいた。前々から思っていたが、私は大森さんが下を向いてアンケートを読んでいる姿が本当に好きだ。ものすごく集中して真剣に書いてあることを読み取ろうとしてくれているのが分かり、その表情がとても美しくて好きだ。

合間合間で大森さんの子ども達に対する「一緒に楽しもう」という姿勢が全面に出ていた。子ども達に話しかけたり、触れたり、「わー」と低い声を出して追いかけたり、距離がとても近かった。サイもそうだが子どもは追いかけられて「きゃー」と言って逃げるのが異様に好きだ。そして自分に興味を持って遊んでくれる大人に心を許す。

スタッフのお姉さんが前に出てナナちゃんお面の作り方を説明してくれ、美マネさんや他のスタッフさんが席をまわりお面の用紙と飾り付用シール、鋏、ホッチキスなどの道具が入ったカゴを配ってくれた。サイは鋏を使うのが大好きなので見つけると目を爛々と輝かせていた。シールにも食いついていた。工作が始まると大森さんは各机をまわられて後ろの方の子ども達とも交流していた。子ども達は好きなシールで飾り付けたナナちゃんお面が完成するとそれを被って舞台に上がりカーテンに隠れたり走り回ったりしてはしゃいでいた。サイは走り回る子らを羨ましそうに眺めるだけでずっともじもじして座っていたが、彼の中で何かが舞い降りたのか、突然立ち上がり舞台に走っていきその輪に自ら入って行った。そしてその後は家にいる時と変わらぬ姿ではしゃぎ、私の元にはなかなか戻って来なかった。なので、お面を黙々と作りながら、やはり同じようにお子さんが離席した前の方と少しお話できた。その間、スタッフさんはずっと机をまわって出たゴミを集めて下さっていて本当に助かった。

お面が大体完成したところで、大森さんが「集合写真を撮りたいと思いますー」と声をかけ、大人も子どもも舞台に上がった。誰が指示したわけでもないのに、ナナちゃんお面をつけた子ども達はわーっと大森さんがいる最前列に集まった。大森さんが今や子ども達の信頼を得てものすごく好かれているのがよく分かった。サイも大森さんの側に行き、満面の笑みで自分が作ったお面を見せていた。私はその子どもらしい距離感にどぎまぎして遠くから眺めていた。
集合写真が終わり、大森さんはいつもの実験室のように一旦退場された。子ども達は相変わらず舞台上ではしゃいでいた。演奏が始まる前、美マネさんがギターを持って出て来られたが、興奮して走りまわる子ども達を見て舞台に置くのを辞めた。その判断がさすがだなと思った。子どもはとにかく興味がある物は何でも触って確認しようとするので、もし置いていたら美しいハミングバードは破壊されていたかもしれない。
しかしよくよく考えると、開始前からずっと演台にいたナナちゃんに乱暴する子は一人もおらず、子どもの中に触れてよいものとダメなものの線引きがあるとしたらすごいなと思った。愛おしそうに撫でたり、恥ずかしそうに一瞬触れて退散したり、代わる代わる持っているお菓子をナナちゃんの口に運んで献上したり、彼らはナナちゃんを敬っていた。それは可愛いからという一点に尽きるのかもしれないが、誰も独占したり持ち逃げしたりしなかったのはナナちゃんにただ者ならぬオーラというか威厳があったからかもしれない。

まもなくして大森さんが登場され、前方右側に置かれたピアノにさっと近づき「アンパンマンのマーチ」と「アンパンマンたいそう」を弾かれた。子ども達は大喜びでペンライトを振ったり体を揺らしていた。よく知ってるアンパンマンの曲なのに大森さんが弾くと大森さんの色がはっきり出ていてとてもよかった。子ども達が盛り上がった所で大森さんはピアノから離れ、今度はギターで弾き語りを始めた。マイクなしの完全生歌生演奏。最初に「ミッドナイト清純異性交遊」を歌われた。子ども達は大人と一緒に手に持っていたペンライトを自由に振ったり手を叩いていた。それから「あたし天使の堪忍袋」を歌われた。意外だったが、生音になるとものすごく優しくて温かくて、うまく言えないけど抱きしめられてるみたいだった。続いて「コーヒータイム」。アンケートの「推し曲」欄に今聴きたい曲としてこの曲を書いたので、大森さんが歌い始めた時あまりにも嬉しくて胸いっぱいだった。続いて「流星ヘブン」。好きな曲なのにサイが話しかけてきたため、集中して聴けなかった。でも素晴らしかった。そして「絶対彼女」。大森さんは前に座っていた小さな男の子に「一人だと緊張するかな」と気にかけつつ、いつもファンに歌わせてくれるソロパートを振った。男の子は舌足らずな声で一生懸命最後まで歌い切り、その様子がとても愛おしかった。歌い終えると大森さんは女神のように微笑んで弾いていたピックを渡し、男の子は受け取っていいものなのか驚いた顔をしていた。大森さんが弾いてごらんとギターを差し出すと、男の子が弦を少し弾いた。ぽろんと音が鳴った。その光景がとても美しかった。

何の曲だったか失念してしまったが、大森さんは途中から部屋をまわって目があった子どもと一対一で向き合ってギターを弾かれた。目の前で音を聞いた子ども達はみんな驚いたような嬉しいような面白い表情をしていた。それでも泣き出す子は一人もいなかった。この子達が初めて花や星を見た時もこんな顔をしていたのかなと思った。サイは目を合わすタイミングを失って他の子に爆レスする大森さんを羨ましげに見つめていたが大森さんはそれにちゃんと気付いて今度はサイに向けて弾いてくれた。私は大森さんの優しさに泣きそうになって、でもサイがいるから泣いてはいけないと思って直視できなかった。

最後に何を歌おうかなと言われて、普段なかなか来れない方もいるだろうから同じ曲を二度やるのはどうかなと迷いつつも、子ども達が一番盛り上がっていたということで「ミッドナイト清純異性交遊」をもう一度歌われた。最初より更に盛り上がって大人も子どももペンライトを振ったりケチャをした。あぁ音楽っていいなと思った。子ども達は大森さんが歌っている途中、突然離席し歩き回る、声をあげる、独自のリズムで揺れる等完全に自由だった。バラバラだったがそれぞれが音を楽しんでいて、音楽とは本来こうあるべきなのではないかと気付かされた。音楽鑑賞の本髄がそこにあった。

最後にチェキ会。つい自宅にいる時のようにリラックスしてしまっていたが、列に並んでいると「大森靖子さんのイベントに来ている」という実感が唐突に沸き、今更ながら緊張した。それくらい夢の中の出来事のようだった。いつもよりゆったりとした撮影会だった。大森さんと接する時間がかなり長くてまごついてしまった。サイは余程嬉しかったのか、撮ったチェキを知らない人に見せてまわっていた。チェキ会が終わりお開きとなる頃、お面を被ったジョニー大蔵大臣さんが控えめに登場されてご挨拶された。温泉に浸かった時のような安堵がどっと押し寄せた。

帰り支度をして会場を出ると、廊下で大森さんはジョニーさんと並んで最後の最後まで子ども達を見送ってくださった。来た時と同じように階段を下って外に出ると、少し日が暮れ始めていて空気がつんと冷たかった。一緒に出た人達とゆっくりと歩いて駅まで向かった。子ども達は動画を観たり、疲れて眠ったり皆大人しかった。サイは知り合いのファンの方にいただいた苺のフルーツサンドを夢中で食べていた。騒ぐ子どもがいないとやけに静かになり、みな今日の日を噛みしめながら歩いているようだった。駅前のうどん屋さんはやはり美味しそうだった。湯気が夕陽に照らされてゆらゆらしていた。また電車に乗って池袋まで行き、池袋でそれぞれの方向に解散して帰宅した。

フルーツサンドを一瞬で平らげた後サイは深く眠ってしまったので最寄駅に着くと喫茶店に入り珈琲を飲みながら今日撮ったチェキをしげしげ眺めた。チェキ以外はまともな写真をほとんど撮れなかったが、大森さんが曲と曲の間にりんごジュースを飲んでた姿がめちゃくちゃ可愛かったな、などと目に焼き付けた数々の愛おしい場面を回想していた。自分の中でしか残らないけど、目に焼き付けるってことも大事かもしれない。

夜、サイは特によかったも楽しかったも言わなかったのでどうだったかなと思っていると、壊れて放置されていた玩具のギターをどこからか引きずり出してきてすぐ修理してほしいと言った。

大森さんはいつかのラジオで「子ども限定ライブをやりたい」とおっしゃり、それはいつか見た夢だった。子どもがいるファンの方とも実現したら素晴らしいだろうねと何度も話した。子どもがいると普段ライブにはなかなか行けない。自分が選んだ道だから不幸という訳ではないが一つの境遇により好きなものが制限されるのは何だか悲しい。かといって本来誰にでも平等に開かれているはずのライブに「子どもと親」という特殊な制限を設けるのは、子どもがいない方の立場で考えると不公平で納得できない気もする。などと勝手に悶々としていた。私は考えるだけ考えて何も行動に移せないことが多い。大森靖子さんは有言実行の人だ。やると言ったらやる。なかったことにしない。夢をいつか見た夢で終わらせず、一つずつ手作りする。それは簡単なようでとても難しい。
小さな子ども達は今日のことをいつか忘れてしまうかもしれないが、目の前で聴いたギターの音や大森さんと過ごした楽しさが感覚として彼らの記憶のどこかにほわっと残っていたらいいなと思った。大森靖子さん、二宮さん、美マネさん、スタッフさん、そして並木幼稚園さんのおかげで貴重な体験をすることができた。心より感謝申し上げたい。

映画『夜空はいつでも最高密度の青色だ』感想

『夜空はいつでも最高密度の青色だ』という映画を観た。最果タヒさんの同タイトル詩集を石井裕也監督が映画化したという。

最果タヒさんは若くして数々の賞を受賞された現代詩人だが、詩の世界に疎い私は大森靖子さんの自伝著『かけがえのないマグマ』の著者として初めてその存在を知った。以降、文芸誌などで彼女の詩や小説が掲載されているのを何度か見かけたことがあるが正面から向き合ったことはない。今回の映画の原作となっている第4詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』も未読であった。

好きになりそうなものや人ほど存在に気付いてから「知る」まで一定期間遠ざけてしまう変な癖が私にはあるらしい。心の準備をせずに注ぎ込むと自分の小さな受皿を超えてどんどん外に溢れ出してしまう。それはその人や作品に対して失礼な行為である気がして、よし今ならと思った時に向き合う。そのタイミングが合っているか合っていないかなんて分からないけれど。だから入口が針穴ほどしかなく「名前しか知らない」と言うと「え、聴いたことないの?みたことないの?」と驚かれることもある。「この作品いいよ」とか「この人面白いよ」と言われたら興味は持つが接近するまでに時間がかかる。匿名の誰かによる芸術や様々な事象に対する無数の感想評価が次々と流れて消えていくツイッターは新しい発見も多く新鮮だったけれど、知らず知らずのうちに他人の感性で濾過された言葉で分かった気になり己の意見を失ってしまうのが怖くて辞めてしまった。

話がずれたがこの映画を観た経緯を記しておきたい。「最果タヒ」をほとんど知らない状態で映画が公開されることをネットニュースで知った。詩の映画化という想像がつかない表現方法に惹かれた。石井裕也監督の作品は『川の底からこんにちは』しか観たことがない。失礼ながら針穴ゆえ主演俳優も名前と顔が分かるくらい。知らないことだらけだった。ただ「知らないけど気になる」が重なり合い、いつもならまぁまたいつか、となるところが珍しくこの映画を観てみたいと強く思った。けれど実際時間が取れず、気が付いた時には終わっていた。無念と諦めていたら渋谷で再上映されていると知った。苦手な渋谷を歩くのが億劫で迷ったが、行かなければ一生後悔するかもしれないと思い、退社後、たくさんの人を掻き分けてユーロスペースへ向かった。渋谷駅の改札を出るといつも、さあこれからこの中に突入するぞと一息つくために立ち止まってしまう。

ここまで書いてまだ感想に至っていない。昔から感想文を書くのがとにかく苦手なため、それをわざわざ公開するのは恥ずかしいが、この映画が自分にとって生涯大切な作品になる気がするから記憶が薄れないうちに感じたことを記しておきたい。あくまで私がどう思ったかという主観的な感想であって批評ではない。

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舞台は現代の東京。主に渋谷。主人公は若い男女二人。日雇労働として工事現場で働く慎二(池松壮亮)と昼は看護師、夜はガールズバーで働く美香(石橋静河)。二人は偶然出会う。運命のように何度も。二人とも自分のことを変だと思っている。東京で暮らすことを良く思っていない。二人が初めて交わす会話が「渋谷、好きなの?ぼくはえーとなんというか・・・」「私は嫌い」(私の記憶に基づくので台詞は正確ではない)。

 美香はあまり笑わない。過去のトラウマから逃れられずにいて、得体の知れない不安や憤りを感じているように見えた。世の中の矛盾やおかしさについていつも苦言している。そして愛や恋の意味が分からない。美香が愛という言葉に反応したり「愛はやんわりと人を殺す」「恋愛なんて何の意味があるの」と言う度に私は「愛してるなんてつまんないラブレターまじやめてね 世界はもっと面白いはずでしょ」という大森靖子さんの『絶対絶望絶好調』の歌い出しが頭に浮かんだ。

 片目しか見えない慎二は冒頭から内容のあるような、ないようなことを早口で話し続ける。「うるさい黙れ」と仕事仲間に言われ、「話してないと不安なんでしょ」と美香に言われる。たくさん話す割に何を考えているか掴めなくて難しい人物だった。ただ、心が美しく優しい人に見えた。あの場面とかあの場面とか。

慎二と美香は言葉を放ち続ける。言葉によってこの世界で、東京という街で、生きるための均衡を保とうとしているのかのように。そして度々美香のナレーションで最果さんの詩が挿入される。なぜ詩だと分かるかというと映画を観た直後、原作の詩集を買って確認した。

 

都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。

塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。

夜空はいつでも最高密度の青色だ。

きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい。

そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。

「青色の詩」

 

「青色の詩」は詩集の冒頭に載っている。これらの言葉は場面に合わせてバラバラに挿入されていたので、同じタイトルの詩だとは気付かなかった。唐突に繰り出される詩に最初は戸惑ったが、それは私が最果さんを知らないからだろう。知っていたら「原作と違う」という気持ちで入り込めなかった可能性もあるからその点では良かったかもしれない。映画が進むにつれ、登場人物達の口からも詩と思わしき言葉が直接放たれ、溶け込んでいく(まだ詩集をちゃんと読めていないので確認できていないが)。ナレーションも主人公達の台詞も、多すぎた言葉はやがて二人が二人の間に流れる「何か」を見つけていくに従って徐々に少なくなっていく。これはまさしく言葉の映画だ。全然違うけれどゴダールの『アルファヴィル』を彷彿とさせた。あれも愛についての映画だったような。

一つ一つの場面が丹念に描かれていて生々しかった。工事現場、ガールズバーの休憩時間、何度も登場するストリートミュージシャンと歌、騒がしい安居酒屋、盛り上がらないデート、やる気のない中華料理店、実家、深夜のテレビ番組。煩いのに静かで、眩しいのに暗い。悲しいのに可笑しい。そして絶望的なのに希望と呼んでいいような光がある。葬式、人身事故、犬の殺傷処分、孤独死、映画を通して色濃く続く死の描写の中で息継ぎをするように現れる生の可能性。慎二の同僚をはじめ登場人物全員がどうしようもないのに愛おしい。仔細に描かれた場面や人物が、時々挿入される詩やアニメーションと合わさり、現実と非現実が混ざり合って美しい化学反応を起こしていた。

慎二と美香は何度も会っているのに最後までほとんどお互いの身体に触れ合うことがない。民放のテレビドラマやハリウッド映画ならここで絶対くるぞという状況でも密室でも、手をつながなければキスすることも抱き合うこともない。話している時もほとんど目も合わさない。話は弾まず噛み合っていない。それでも二人が何かどこかで通い合っていることをスクリーンのこちら側で観ている私は薄々感じる。だから終盤、二人が通じ合っていることにはっきり気付いた時、とても嬉しくなった。その時の二人のしぐさや表情が愛おしすぎてここには書けないいくつかの場面がある。二人は何度かメールでやり取りしていたが呼吸のようだった。(昔の恋人から連絡がきて)「まだ愛してるって言われた」と送った美香に対し慎二は「愛してたって言われた」と返す。


地元を離れ東京に来てからずっと、一千万人以上の人が暮らすこの街で、貧困、失業、災害、テロ、殺人、自殺その他毎日暗いニュースで溢れるこの世界で真顔で生きていることが苦しかった。満員電車、繁華街、要るのか要らないのか分からない情報、大量生産大量消費。どこに向かって歩けばよいのか分からなかった。でも、この映画を観た今、自分のいる世界や東京の街がほんの少しだけましに思えてきた(それでも良いとは絶対に思えない)。美香と同じように私も「愛」や「生きること」の意味が理解できない。考えるとどうしようもなくなるから考えないようにしている。この映画はそんな私に明確な答えを提示することはなかったけれど少なくとも顔をあげて前を向くための兆しを与えてくれた。こんな映画をずっと観たいと思っていた。

ユーロスペースを出ると映画で観たままの眩しくて騒々しい夜の渋谷があり、映画と現実が地続きになっているような不思議な心地がした。意図せず渋谷で観たが、思えば映画の舞台となった場所でそれを観た経験は初めてのことだった。感じた兆しを失わないように、受皿から溢れないように、できるだけ急いで駅に向かって電車に乗って帰宅した。まだ上映している映画館があるようなのでできることならもう一度観たい。嬉しいことにDVDも近日発売されるらしい。これから何度も必要になると思うから手元に置いておきたい。そして最果タヒさんの詩を知りたいと思った。

観なかったら一生後悔するところだった。今私にもっとも必要な映画だった。