(続)海の音

雑念のメモ

14歳の読みすぎかもしれない

会いたい人には自ら会いに行けばいいのだし会えなければ相手を想ってただ時間を過ごせば良い、即ち同じ時間軸上にいる限りこれまでと変わらない日常を過ごせばよいというだけの話だなほほう、って考えて変な時間に目が冴え冴えしている。

昔から感情を言葉にして話すのが死ぬほど苦手で授業で挙手をして立って発表なんて拷問でしかなかったから自分はいつも席に座って俯いて前に使っていた誰かが開けたプリント書く時いつも鉛筆がすぼっと嵌る机の黒い穴を見ながらぐるぐる頭の中を回転させたりさせなかったりしていた。さすがに今は社会人になったから会議で求められば口を開くようになったけど伝え方に問題があるのか、ん、いやそうじゃないんだけどなって後から悶々とする時があるし伝えたところで結局各々持っている意見が変わらない場合もある。そもそも感情を誰とも共有しないで、たった一人で考えたり想うことってそんなに悪いことじゃないしそのために夜中があるんじゃないかって思っている。頭の中でどうにもならない時は書いたり描いたり歌ったり踊ったり作ったり身体を動かして吐露することだってできる。芸術が何なのか未だに理解できていないが、結局大昔からそういう日常の延長で生まれてきたような気がする。

 

少し寝て起きたら曜日感覚が分からなくてあれ週末かな明日休みだったかなとふと思ったけどまだ週も半ばだった。仕事は続くし予定はあるし世界はまだまだ終わらない。植物が突然消えて人類も地球も滅亡して終末を迎えるわけじゃないんだし。

わからない

別に死にたいとか全く思わないのだけど今生きている理由、仕事してごはん食べて洗剤買って洗濯して眠ってまた朝が来てっていう毎日を繰り返している意味が全然分からない時どうすればいいのだろうか。最近そればかり考えて街を歩く人職場の人電車に乗っている人皆なにゆえ日々の生活を営んでいるのだろうかと考えてみるもその表情からはわからない。そもそも何のためとか考えるのが間違っているのかもしれない。

何が言いたいのか分からないただの更年期

人間25歳がピークだなんて誰が決めた訳でもなくただ漠然と自分で勝手に思っているだけなのだけど、何の根拠もなく思っているというよりは自分が25歳を過ぎた辺りから新しいことをするのを諦めたり無理に嫌いな人とコミュニケーションを取るのを辞めたり、まあ消極的というかガッツと呼ぶならそういうのが減っている気がし始めて、身体的にも精神的にも人生の終焉に向かっているのかもしれないと薄々自覚し始めた。いやいやそんなの気のせいだ気力次第だとそれなりに生きてきたのであるが、それが30歳過ぎた時点でいよいよはっきり感じるようになり、以降あらゆる物に対するモチベーションは数学の教科書で見たような上に凸の二次関数が最大値を過ぎてどんどんゼロ否マイナス領域にまで急降下するように勢いよく失われている。何故か分からないけど。というのはごく個人的な問題であって一般論ではない。25過ぎても30過ぎても50過ぎてもあぁ魅力的だと思う人は勿論いて、そういう素敵な人を見る度に愚痴愚痴ぼやいている場合ではないと奮起し格好良くて可愛くて美しい彼ら彼女らに少しでも近づきたいと思って、まずは内面からだと何事にも大らかになろう人に対してはとにかく優しく穏やかになろうと努め、外見でも増えていくシミや皺を野放しにする訳にはいかんとカウンターのお姉さんに何かお悩みのことはございますかと問われれば人生相談所かというくらい前のめりで悩みを打ち明け待ってましたとばかりにお姉さんに勧められた基礎化粧品を購入、大丈夫ほらいい感じみたいな生き方を演じようとするのだけどやればやるほど運動音痴が無理して逆立ちしてるみたいになり、本来の自分と乖離してるからふとした瞬間転けてズル剥けになり阿呆な面がぽろぽろ人前で出てきてしまいその度に哀しくて恥ずかしい。結局薬局、丁寧な暮らし白っぽい服高い箒手作り市常備菜無垢の床くそ喰らえって全部纏めて丸めて壁に投げつけてファミチキを齧って発砲酒を飲んでソファに転がっている始末。仕事も家事もうまくこなせなくて、人ともうまく話せなくて、世代なのか何なのかネットSNS至上主義の速度にも全然着いて行けなくて、気が付いたらどこにも居場所を見つけられずに溺れていて、一層のことちょっとやそっとじゃ帰って来れない場所、言語も価値観も全く通じないどこか遠くの世界へ行ってしまいたいと思う。それって別に今に始まったことでなく、物心付いた時からずっと同じようなこと考えていたから何も変わってないのだなぁと我ながら愕然とする。そんな世界どこにあるのか果たして分からないけど近所の公園の遊具に誰かがでかでかと書いた「神」という落書きを見る度に何故か少し救われていてちゃんと残っているか無意識に確認していた。その落書きは今日見たら綺麗にペンキで上塗りされてなくなっていた。代わりに喧嘩上等という文字が何たら中学何年何たらという署名入りで落書きされていた。私はまた週末ごとに喧嘩上等がちゃんとあるか確認しに行くのだろう。それが果たして救いになるのか分からないけど。

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元々吐きそうなぐらい嫌いな自分の顔と身体が老いという避けられぬ要因により更に醜くなっていく様を鏡で確認する度に外に出たくなくなり誰にも会いたくなくなる。縋るような思いで夜中に全然知らない可愛い女の子の自撮りや友達と過ごす様子をネットで漁って何時間も見ている。ああ可愛い可愛い。救われるー。そうやってると朝が来る。楳図かずおの『洗礼』みたいで我ながら怖い。今日も朝から身体が不調で動けなくて、でもあの人はしんどくても頑張ってるし息子はどこからか薬探してきてだいじょうぶだからねって言ってくれる。好きなブランドの秋冬が立ち上がって一目惚れしたあの洋服の表面に施された鮮やかな刺繍を今日はそっと触れに行きたかったけど着替えて化粧してオムツやら何やらでっかい鞄に詰めて電車に乗って街に出てって考えたら何かもう全部無理になってとにかく近所の公園行こう。公園で息子とおにぎり食べよう。こんな醜い顔で似合わないかもしれないけど馬鹿高いあの洋服に触れに行きたい。着るだけでその人のスイッチが入るような服を作りたいって言っていた人が泣きながら作ったその服が好きだから。下書きに入れたまま何となく公開できないでいる日記がどんどん溜まっていく。一番好きな季節がすぐそこにいるのを感じる。

たかがゼリーポンチ、されど

京都の喫茶店、ソワレのゼリーポンチを食べた。しかし京都へ行ったわけではない。

池袋西武で「菓子博」なる全国からお菓子屋さんが集結するイベントが開催されている、そしてゼリーポンチが来るらしいから食べてみたいと友人が連絡をくれた。行きたいと即答した。だって食べたいから。正確に言うと食べたいというより見たいから。

 

喫茶ソワレのゼリーポンチ。乙女の代名詞のようなメニュー。いわゆるインスタ映えするメニューだと思う。

インスタもツイッターも世界に存在しなかった十代のある夏休み、京都を訪れた。京都へ行ったら、今も無知だが今よりもっと無知だった私に関西の色んな面白い場所やお店を教えてくれたバイブル的情報誌・Lmagazine(地域と世代が合ってそうそうエルマガめっちゃ読んでた!という人にたまに出会うと興奮する)で紹介されていた美しい喫茶店でゼリーポンチなるものを食べてみたい思っていた。しかし訳あってソワレには行くことができなかった。

それから十数年が経過したが、ネットや雑誌でソワレが何度も登場する度に「はっ、また出たな。人の見た光景なんかいらん。いつか絶対行くからな、待ってろソワレ待ってろゼリーポンチ」と勝手に一人で悔しがり誰かが撮ったおしゃれな写真を直視できず雑誌のページは急いで閉じた。いわば、ゼリーポンチに対して拗らせていた。

上京するまで京都は数えきれないくらい訪れたが、なぜかソワレに行くことができなかった。行きたいのに行けなかった。拗らせてるから。何かのついでに行きたくなかった。何ならゼリーポンチを食べるためだけに京都に行き、あの空気にずぶずぶに浸り、店を出たらすぐ帰るぐらいの心意気で臨みかった。とか言ってる間にメディアでの紹介頻度は増した。でも行列して入店するのもなんか違う気がして嫌だった。完全に拗らせてる。

就職を機に関西から離れると京都に行く機会は激変しソワレに行かぬまま数年経過、その間自分史上最大の事件とも言える妊娠出産を経験し、京都自体訪れることがなくなった。

それでも雑誌の京都特集で常連のように登場するゼリーポンチを見かけるとスルーできず、一体自分はいつ行けるのだろうか子連れで京都なんてまず無理だから10年後かもしれない等と考えていた矢先。

本場で食べなきゃ意味ない、店で食べるのとは味が違う、ソワレみたいな喫茶店は京都の街や店の雰囲気込みで味わうものだからデパートの催事で食べても意味ない、などの意見があるとすれば全部無視したい。

違う。そんなの分かってる。河原町のあの場所、フランソワ喫茶室と同じ並びにある海の中みたいに青い照明のお店で食べた方がそりゃあいいに決まってる。あの夏の夕方、行けなかったソワレ。食べられなかったゼリーポンチ。通りに人は少なく、暑くて静かだった。

色々な当たり前にできていたことが出産後、当たり前でなくなった。一人で行きたい場所に簡単に行けなくなり、したいことは簡単にできなくなった。助けがない状況下での子育ては不自由さを伴うものだともちろん出産前に理解していたつもりだったが、甘かった。

当然、子どものおこだわりを優先すればするほど自分のおこだわりは削られる。それは不自由でありながら案外悪くはない。本当に必要で大事な部分だけ残った。削られて純度が高くなった。会社の飲み会やあまり行きたくない集まりなど気が乗らないものは断ち、本当に行きたい場所に行き本当に好きな人にだけ会うようになっていった。意識したわけでなく仕方なく。それでも叶わない場合はさっぱり諦めたり、目的に応じて子どもも連れて行くことも覚えた。

 ベビーカーで混雑した催事に来ている、騒ぐ子どもと列に並んでいる、大人だけだと必要ない席まで余分に使っている。分かっている。きっとある人には異様な光景で、ゼリーポンチ食べるために何もそこまでしなくてもねぇと思われているだろう。分かっている。子連れで何でも許される優遇されて当然なんて今まで思ったことはないし、人様に迷惑をかけないように常に意識している。

 

その上で見た、あの光景。お花みたいな受け皿に乗って現れたあの子。しゅわしゅわのソーダに沈むキラキラの色鮮やかなゼリー。フルーツ。小さい頃、夏休みにおばあちゃん家に行って特別に玩具のアクセサリーセットを買ってもらった時みたいな懐かしさと憧れの入り混じった気持ちが一瞬で湧き上がる。

これはなにいろ?黄色だよ。これは?緑だよ。どの色が好き?サイくんはあかいのがすき。ピンクだね、お母さんもね、ピンクが好き。

スプーンで掬うたびに宝石の煌きが目の前に溢れてうっとりする。あれだけ思い焦がれたゼリーポンチはソーダもゼリーも甘さを抑えた大人の味だった。甘すぎなくて美味しいね、と友人と言い合った。

ゼリーポンチを待つ行列は更に増えており、席から順を待つ人達が大勢見えていたし、インスタ映えからは程遠い写真しか撮れなかったし、ガヤガヤと煩いし、子どもは食べ零すし、とにかく落ち着かなかったけどあの瞬間、幸せがあった。なんか生きててよかったって思った。

一人だと絶対にまた行かずに終わっていただろうから、今回誘ってくれた友達にありがとうの気持ちしかない。いつか分からないけど、必ずソワレを訪れたい。こうやって色々な面倒や与えられた境遇と日々折り合いをつけながら大切を失わないようにしたいなぁ。

 

ゼリーポンチへの拗らせおしまい。

好き

明け方、洗濯物を干しながら好きな人の曲、私が初めて聴いたその人のアルバム、を聴いていて、うおおおやっぱ好きだと思った。歌詞もメロディも声も歌い方も全部好きだ。それで歌ってない時はあの感じ。あの優しさ。ああ、好き。

私はこの人に音楽って面白いんだなって教えてもらった。出会うまで音楽なんてよく分からなくて自分には一生無縁だって思っていた。でも本当は知りたかった世界。もう手遅れだと思っていた。そしたら針穴みたいな入り口から覗いてくれてよかったらおいでって囁いてくれた。

好きだと思うってアルバム貸してくれた人、好きな者同士集まる人、敢えて好きを共有しない人、色んな人を見てきたけど私は何になるんだろう。ただ好きで好きで仕方がない。

こわい

人に会うことが怖い。自分みたいな人間に会ってくれようという人は数多くはいないがゼロではなく滅多にない予定が入ると死ぬほど嬉しい反面その日が近づくにつれ不安ばかり募る。風水とかそういうのは一切信じないタチだが自分が今持っている邪悪な空気とかマイナスの感情を気付かぬうちに香水がキツいおばさんみたいにこれから会う相手に大量に振り撒いたらどうしようと考え始めて楽しみな予定を入れても怖くて怖くて押し潰されそうになる。過去に気に入った商品やお店は例外なく見かけなくなったり潰れた。最初は偶然かと思ったが毎回だった。考えれば人もそうかもしれない。だからいつからか、本当に好きなお菓子は毎日買わないことにして、常連になりたいぐらい好きなお店を見つけても毎日行きたいのを堪えてそこまで気に入ってない風を装う。そうやってきたみたいにもう誰かを悲しませたり誰かの何かを壊したりしたくない。あぁこわい。